常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんからのメッセージ

常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんからのメッセージです。2つめは ぜんぶん ひらがなです。

****かんじ、つかってます****

在特会、日本、「カウンター」、反日。しんどい反日。」
常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)
(通称)反日デモの趣旨文に賛同します。
在特会は例外的なモンスターではなく、日本というものを象徴する存在です。
1868年、大日本帝国が誕生し、以来、それは帝国主義的な侵略戦争と植民地支配を行ってきました。1945年の敗戦は、そのような過去との断絶とはなりませんでした。侵略戦争への十分な謝罪と反省を行ってこなかった、そして植民地主義的政策を続けているのが現在の日本です。大日本帝国が否定されるべきことは言うまでもありませんが、(敗戦後)日本もまた批判の対象でなければなりません。在特会は、リベラルな空間に異物として登場したのではない。日本という一つの全体の症状として現れたのです。排外主義に反対するということは、本来、日本に反対するということです。つまり、反日です。
在特会をうつとしたら、日本としてうたなければなりません。日本人が在特会に反対したら、その人は「良心的な日本人」ということになるのでしょうか? しかし、「良心的な日本人」と在特会の「対立」を包み込むように一つの全体として構成されているのが日本です。日本人が在特会に反対するのであれば、ある種の自己否定・自己解体を伴うものでなくては茶番と言わねばなりません。
在特会に対抗するものとして、「仲良くしようぜ」「しばき隊」「CRAC」「のりこえネット」といった「カウンター」勢力が登場しました。このような人々は単一的な党派に統一されてはおらず、種種雑多なマルチチュードとして運動を行っています。
「カウンター」の特徴は、さまざまな立場の人が参加しているということです。日本人もいれば、在日朝鮮人在日韓国人を含む外国人もいます。左翼もいれば、右翼もいます。在特会という「絶対悪」への反対を共通項として、本来は敵対しあう人々がフレキシブルに接合しているのです。
ここに、最大の問題点があります。在特会という共通の敵を前にして、単に左右の敵対性が停止されるだけではありません。そこに残るのは右だけです。左が右に呑み込まれるのです。
そこでは、日の丸が容認され、民族差別発言が許容されます。そもそも、在特会在特会社会日本の症状なのだとすれば、在特会に対抗するため右翼と共闘するというのはおかしな話です。それは、火をとめるために水が油と仲良くするようなものです。
このような「カウンター」を、排外主義に対抗する勢力がいろいろあっていいなかの一つとして、あいまいにとらえる立場を私はとりません。私は、「カウンター」を否定します。
在特会社会日本。日本に反対しましょう。(通称)反日デモの成功をいのります。
いや、日本はしぶとい。「成功」という表現は一回のデモに対して不適切かもしれません。状況は厳しい。しんどいながらも、ふんばりましょう。反日として。

****かんじ、つかってません****

「ざいとくかい、にほん、「カウンター」、はんにち。しんどい はんにち。」
つねの・ゆうじろう
(つうしょう)はんにちデモの しゅしぶんに さんどうします。
ざいとくかいは れいがいてきな モンスターではなく、 にほん というものを しょうちょうする そんざいです。
1868ねん、 だいにっぽんていこくが たんじょうし、 いらい、 それは ていこくしゅぎてきな しんりゃくせんそうと しょくみんちしはいを おこなって きました。 1945ねんの はいせんは、 そのような かことの だんぜつとは なりませんでした。 しんりゃくせんそうへの じゅうぶんな しゃざいと はんせいを おこなって こなかった、 そして しょくみんちしゅぎてき せいさくを つづけて いるのが げんざいの にほんです。 だいにっぽんていこくが ひていされるべき ことは いうまでも ありませんが、 (はいせんご) にほんも また ひはんの たいしょうでなければ なりません。 ざいとくかいは、 リベラルな くうかんに いぶつとして とうじょう したのではない。 にほんという ひとつの ぜんたいの しょうじょうとして あらわれたのです。 はいがいしゅぎに はんたいする ということは、 ほんらい、 にほんに はんたいする ということです。 つまり、 はんにちです。
ざいとくかいを うつとしたら、 にほんとして うたなければ なりません。 にほんじんが ざいとくかいに はんたいしたら、 そのひとは 「りょうしんてきな にほんじん」 ということに なるのでしょうか?  しかし、 「りょうしんてきな にほんじん」と ざいとくかいの 「たいりつ」を つつみこむように ひとつの ぜんたいとして こうせいされているのが にほんです。 にほんじんが ざいとくかいに はんたいするのであれば、 あるしゅの じこひてい・じこかいたいを ともなうものでなくては ちゃばんと いわねば なりません。
ざいとくかいに たいこうするものとして、 「なかよくしようぜ」「しばきたい」「CRAC(くらっく)」「のりこえネット」 といった 「カウンター」せいりょくが とうじょうしました。 このような ひとびとは たんいつてきな とうはに とういつ されてはおらず、 しゅしゅざったな マルチチュードとして うんどうを おこなっています。
「カウンター」の とくちょうは、 さまざまな たちばの ひとが さんかしている ということです。 にほんじんも いれば、 ざいにちちょうせんじん・ざいにちかんこくじんを ふくむ がいこくじんも います。 さよくもいれば、 うよくも います。 ざいとくかいという 「ぜったいあく」への はんたいを きょうつうこうとして、 ほんらいは てきたいしあう ひとびとが フレキシブルに せつごう しているのです。
ここに、 さいだいの もんだいてんが あります。 ざいとくかいという きょうつうの てきを まえにして、 たんに さゆうの てきたいせいが ていしされるだけでは ありません。 そこに のこるのは みぎだけです。 ひだりが みぎに のみこまれるのです。
 そこでは、 ひのまるが ようにんされ、 みんぞくさべつはつげんが きょようされます。 そもそも、 ざいとくかいが ざいとくかいしゃかい にほんの しょうじょう なのだとすれば、 ざいとくかいに たいこうするため うよくと きょうとうする というのは おかしな はなしです。 それは、 ひを とめるために みずが あぶらと なかよくするようなものです。
このような 「カウンター」を、 はいがいしゅぎに たいこうする せいりょくが いろいろあっていいなかの ひとつとして、 あいまいに とらえる たちばを わたしは とりません。 私は、 「カウンター」を ひていします。
ざいとくかいしゃかいにほん。 にほんに はんたいしましょう。 (つうしょう)はんにちデモの せいこうを いのります。
いや、 にほんは しぶとい。 「せいこう」という ひょうげんは いっかいの デモに たいして ふてきせつ かもしれません。 じょうきょうは きびしい。 しんどいながらも、 ふんばりましょう。 はんにちとして。