でも しんせい 、 ゆうそう で やった よ!

まえ の きじ (http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20180205/1517823522) の かんじ あり ばーじょん です。

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はんにちわ ー! はんにちわ ー!
は ・ ん ・ に ・ ち ・ わ ーーー!!

わたしたち は 12 がつ 23 にち に はんてんのう でも を やりました。 その ないよう について は < http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20180129/1517192341 > の きじ を お よみください。
めっちゃ いい きじ な ので ぜったい、 ぜ ー ったい お よみください!
この きじ で は この でも を きかく するにあたって こんかい、 わたしたち として は はじめて ちょうせん した こと を ほうこく します。
それ は … … … … …



な、 な、 なんと … … …


「いちど も けいさつしょ に いかず に でも を やりとげる!」

です。

これ まで わたしたち は でも を かいさい するに あたって まいかい にど に わたり けいさつしょ に でむかされて いました。
いちどめ は でも しんせい の ため に。
にどめ は 「きょかしょう」 を うけとる ため に

そして、 これ は でも を きかく するに あたって しょうじき なかなか の しんりてき、 ぶつりてき、 けいざいてき はーどる に なって いました。
なぜ って、 しんせい において は けいさつ は ほんらい その けんげん も ない くせ に、 しつよう に でも こーす や かいし じこく など について かいにゅう して くる こと が よく ある から です。 きょうとし で は でも しんせい は けんぽう いはん である あしき こうあん じょうれい に のっとって なされて いる の が げんじょう です が、 けいさつ は いわば しんせい の うけとり まどぐち に すぎません。 それなのに、 しゅさい にたいして じぜん に でも について こうしょう し かんり ・ しはい しよう と して くる の です。 これ を つっぱねると (もちろん これ まで つっぱねて きました よ) ばあい によって は しんせい だけ で なんじかん も かかる こと が あります (ちなみに、 しんせいしゃ が きょひ を めいじ して も なおも けいさつ が 「ぎょうせい しどう」 を やめない の は いほう です)。

この しんせい だけ で なかなか ひへい します。 だいたい、 でも げんば で は いつ 「ころび こうぼう」 なんか で たいほ して くるか わからん けいさつ の ほーむ に いく こと じたい が はんにち ひこくみん として は めちゃくちゃ いごこち わるい です。

それなのに、 しんせい が とおったら とおった で こんど は 「きょかしょう」 を とりに こいと ふたたび けいさつしょ に よばれる わけ です。

しかも どちら も へいじつ かつ じかんたい の しばりも あります。

これ だけ で、 でも の じゆう が ふとう に せいげん されて いると おもいません か?
わたしたち は ずっと この ふとう な じょうきょう に いきどおって ました。

なので、 もう でも しんせい や 「きょかしょう」 の ため に けいさつしょ に いく の やめる こと に きめました。

けんぽう いはん の あしき こうあん じょうれい に のっとって なされる でも しんせい な の です が、 その こうあん じょうれい で さえ、 しんせい ほうほう について べつに けいさつしょ で やらん と いけない なんて きまりは べつに ない ん です。

なので、 こんかい、 じぶんたち で きょうとし こうあん じょうれい で でも しんせい において ひつよう きさい じこう と なって いる もの を かくにん し、 ぶんしょ を ゆうそう しました。
ふぉーまっと も けいさつしょ で ようい してる の は むし して さいていげん に かんそ な おりじなる で つくりました。

こんな かんじ です。

じつは これ、 けいさつしょ で わたされる でも しんせい の ふぉーむ と いくつ か ちがう ん です。
けいさつしょ で わたされる もの に は、 「げんば せきにんしゃ」 が だれか を かかせたり、 げんば せきにんしゃ や しゅさいしゃ の ねんれい で は なく 「せいねんがっぴ」 を かかせる もの に なって います。
また、 はんこ を なんかしょ も おさなく て は ならないです。

こんかい、 ゆうそう で やって みて おもった の は、 けいさつ は けんぽう いはん の あしき こうあん じょうれい に あぐら を かきながら、 それ より も さらなる かんり ・ しはい を して くるという こと です。

と は いえ、 ゆうそう であっ て も   もんだい なく しんせい は じゅり され、 とおりました。
(いちど、 でんわ で けいしき ふび が あると いわれました が、 あてさき に 「きょうとふ こうあん いいんかい」 を いれろ、 とか、 しょめん に 「しゅうだん こうしん および しゅうだん じい うんどう きょか しんせいしょ」 という ながい たいとる を いれろ、 とか しょうもない こと でした。 むか つく けど、 ほせい して さいそう しました。 )

でも よていび の 3 にちまえ に なって けいさつしょ より 「でも しんせい が とおりました。 きょかしょう を とりに きて ください」 と でんわ で れんらく が ありました。
わたし が 「いく じかん ない から、 とうじつ げんば で もらう」 と おうじると 「いや、 こっち (けいさつしょ) に きて ください」 と いいはります。
「とうじつ は よんで も ない のに どうせ あなた ら (けいさつ ら) は げんば に くるだろう。 ほれなら そこで わたせば よい でしょ。 なぜ わざわざ じぜん に けいさつしょ に でむかなけれ ば ならん の か わからん、 こいと いう の なら その こんきょ を しめして」 と つっぱねました。
すると、 こいと いいながら その こんきょ も しらなかった の でしょう、 でんわ を ほりゅう に されました。
しばらく して、 また つうわ が さいかい して その けいさつかん が いって きた の は 「でも かいし の 24 じかん まえ まで に しゅさい に こうふ しなけれ ば ならない」 から だ と。
これ じたい は こうあん じょうれい (だい 6 じょう) に も かいて ある こと です が、 この もんごん の しゅし を じょうしきてき に かいしゃく すれば、 これ は しゅさい が ちょくぜん まで でも しんせい の けっか が わからず に こまるといった じょうきょう を ふせぐ ため に けいさつ に たいして かして いる ぎむ の はず です。
なので、 「きょかしょう」 を けいさつしょ で もらわなけれ ば ならない と しゅさい に ようせい する の は おかしい し、 しんせい が とおった こと じたい は でんわ れんらく の じてん で かくにん されて いるので とうじつ の げんち うけわたし で もんだい が あると は かんがえられません。
その むね を つたえ、 あらためて けいさつしょ に いく じかん も とれない と いいはると、 けいさつ も あきらめて とうじつ の げんば で の こうふ に ごうい しました。
ただ、 でんわぐち で ふとう な 「きょか じょうけん」 を よみあげて きた の は うざ かったです。

なに は ともあれ、 いちど も けいさつしょ に いかず に でも を かいさい する こと は かのう である という こと が きょうとし で も かくにん されました。

ぜひ、 ぜんこく かくち で でも さる を じゃんじゃん ゆうそう して やりましょう!

ここ で いっく。
けいさつしょ ー   いかず に でも を   やりとげよー!

こんご の さんこう に なれば と おもうので、 こんかい の でも しんせい で じっさい に おくった ゆうそうぶつ

・ でも しんせい しょ :2 ぶ 

・ でも の こーす ちず :2 ぶ
→ ねっと で にゅうしゅ できる ちず を いんさつ して その うえ に しんろ を あらわす せん を ひき、 「かいし ちてん」 と 「かいさん ちてん」 を めいき すれば じゅうぶん だ と おもいます。

・ そうふ じょう :1 ぶ
→ はじめて な ので いちおう つけて みました が べつに なく て よい と おもいます。

ゆうそう の あてさき は でも かいし ちてん の しょかつ の けいさつしょ の しょちょう あて に しました。

デモ申請、郵送でやったYO!

つぎ の きじ(http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20180205/1517824390) は かんじ なし ばーじょん です。

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はんにちわー!はんにちわー!
は・ん・に・ち・わーーー!!

私たちは12月23日に反天皇デモをやりました。その内容については<http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20180129/1517190679>の記事をお読みください。
めっちゃいい記事なので絶対、ぜーったいお読みください!
この記事ではこのデモを企画するにあたって今回、私たちとしては初めて挑戦したことを報告します。
それは……………



な、な、なんと………


「一度も警察署に行かずにデモをやり遂げる!」

です。

これまで私たちはデモを開催するにあたって毎回二度にわたり警察署に出向かされていました。
一度目はデモ申請のために。
二度目は「許可証」を受け取るために

そして、これはデモを企画するにあたって正直なかなかの心理的、物理的、経済的ハードルになっていました。
なぜって、申請においては警察は本来その権限もないくせに、執拗にデモコースや開始時刻などについて介入してくることがよくあるからです。京都市ではデモ申請は憲法違反である悪しき公安条例に則ってなされているのが現状ですが、警察は言わば申請の受け取り窓口に過ぎません。それなのに、主催に対して事前にデモについて交渉し管理・支配しようとしてくるのです。これを突っぱねると(もちろんこれまで突っぱねてきましたよ)場合によっては申請だけで何時間もかかることがあります(ちなみに、申請者が拒否を明示してもなおも警察が「行政指導」をやめないのは違法です)。

この申請だけでなかなか疲弊します。だいたい、デモ現場ではいつ「転び公妨」なんかで逮捕してくるか分からん警察のホームに行くこと自体が反日非国民としてはメチャクチャ居心地悪いです。

それなのに、申請が通ったら通ったで今度は「許可証」を取りに来いと再び警察署によばれるわけです。

しかもどちらも平日かつ時間帯の縛りもあります。

これだけで、デモの自由が不当に制限されていると思いませんか?
私たちはずっとこの不当な状況に憤ってました。

なので、もうデモ申や「許可証」のために警察署に行くのやめることに決めました。

憲法違反の悪しき公安条例に則ってなされるデモ申請なのですが、その公安条例でさえ、申請方法について別に警察署でやらんといけないなんて決まりは別にないんです。

なので、今回、自分たちで京都市公安条例でデモ申請において必要記載事項となっているものを確認し、文書を郵送しました。
フォーマットも警察署で用意してるのは無視して最低限に簡素なオリジナルで作りました。

こんな感じです。

実はこれ、警察署で渡されるデモ申のフォームと幾つか違うんです。
警察署で渡されるものには、「現場責任者」が誰かを書かせたり、現場責任者や主催者の年齢ではなく「生年月日」を書かせるものになっています。
また、判子を何箇所も押さなくてはならないです。

今回、郵送でやってみて思ったのは、警察は憲法違反の悪しき公安条例に胡座をかきながら、それよりもさらなる管理・支配をしてくるということです。

とはいえ、郵送であっても 問題なく申請は受理され、通りました。
(一度、電話で形式不備があると言われましたが、宛先に「京都府公安委員会」を入れろ、とか、書面に「集団行進及び集団示威運動許可申請書」という長いタイトルを入れろ、とかしょうもないことでした。ムカつくけど、補正して再送しました。)

デモ予定日の3日前になって警察署より「デモ申請が通りました。許可証を取りに来てください」と電話で連絡がありました。
私が「行く時間ないから、当日現場でもらう」と応じると「いや、こっち(警察署)に来てください」と言い張ります。
「当日は呼んでもないのにどうせあなたら(警察ら)は現場に来るだろう。ほれならそこで渡せばよいでしょ。なぜわざわざ事前に警察署に出向かなければならんのか分からん、来いというのならその根拠を示して」と突っぱねました。
すると、来いと言いながらその根拠も知らなかったのでしょう、電話を保留にされました。
しばらくして、また通話が再開してその警察官が言ってきたのは「デモ開始の24時間前までに主催に交付しなければならない」からだと。
これ自体は公安条例(第6条)にも書いてあることですが、この文言の趣旨を常識的に解釈すれば、これは主催が直前までデモ申請の結果がわからずに困るといった状況を防ぐために警察に対して課している義務のはずです。
なので、「許可証」を警察署でもらわなければならないと主催に要請するのはおかしいし、申請が通ったこと自体は電話連絡の時点で確認されているので当日の現地受け渡しで問題があるとは考えられません。
その旨を伝え、あらためて警察署に行く時間も取れないと言い張ると、警察も諦めて当日の現場での交付に合意しました。
ただ、電話口で不当な「許可条件」を読み上げてきたのはウザかったです。

なにはともあれ、一度も警察署に行かずにデモを開催することは可能であるということが京都市でも確認されました。

ぜひ、全国各地でデモ申をじゃんじゃん郵送してやりましょう!

ここで一句。
警察署ー 行かずにデモを やり遂げよー!

今後の参考になればと思うので、今回のデモ申で実際に送った郵送物

・デモ申:2部

・デモのコース地図:2部
→ネットで入手できる地図を印刷してその上に進路を表す線を引き、「開始地点」と「解散地点」を明記すれば充分だとおもいます。

・送付状:1部
→初めてなので一応つけてみましたが別になくてよいと思います。

郵送の宛先はデモ開始地点の所轄の警察署の署長宛にしました。

2017 ねん 12 がつ 23 にち * はんてんのう でも

まえ の きじ (http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20180129/1517190679) の かんじ あり ばーじょん です。


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はんにちわ ー!
はんにちわ ー!
はんにちわ ー!

1ねん いじょう の ごぶさた でした が、 はんにち ひこくみん の みなさま、 いか が おすごし でしょう か。
さる 12 がつ 23 にち、 「じゆう と じんけん は 『こくみん』 の せんゆうぶつ で は ない と かんがえる ひとびと」 は、 なんと 2 ねん 3 かげつぶり に でも を おこないました。 この ひ に かかげる の は もちろん 「てんのうせい はんたい!」。 しわす の きょうと を あつく した でも の ほうこく です。



ひごろ の はんにち かつどう の せいか でしょう か、 そら は すっきり と はれ、 ひ ざしが まぶしい さんじょう かせんしき に やく 20 めい が しゅうごう しました。 この ひ の ため に しんちょう した ぷらかーど、 ばなー も おひろめ です。






しゅっぱつ の ちょっと まえ に は、 いつも の ごとく よんで も いない のに なかぎょうしょ の けいかんたち が やってきます。 けいかんたち の うち の 1 めい が ちかづいて きて、 なかま の ひとり に しょるい を じむてき に こうふ し、 もどって いきました。 (※ これ について は http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/touch/20180205/1517823522 で くわしく せつめい します。 ) さあ、 じゅんび は ととのいました。 でも の はじまりです。

かせんじき から さんじょうどおり に あがり、 かわらまちどおり へ。 はんかがい に たいこ の おと を ひびかせながら すすみます。 せんじつ おこなわれた べつ の でも で は、 そう おおく も ない さんかしゃ に たいし、 おおがた じんいん ゆそうしゃ (つうしょう 「かまぼこ」) が、 まるで さんかしゃ を たべよう と するか の よう に うしろ を ついて きて いた の です が、 きょう は すがた が みえません。
ほんらい、 でも は じゆう な もの。 あるく はやさ も じゆう、 どうろ の はば を どこ から どこ まで つかうか も じゆう です。 「もっと ひだり へ よって!」 とか 「はやく あるいて!」 とか しじ される いわれ は ありません。 おおきな くるま で うしろ から おいたてるなんて もってのほか です。 でも の すぴーち は、 そう やって わたしたち の じゆう を うばおう と する けいさつ へ の いかり から はじまりました。



《すぴーち》
はんにちわ ー!は ・ ん ・ に ・ ち ・ わ ー!
はんにち ひこくみん の でも が はじまります!
さて、 きょう も まずは けいさつ へ の もんく から はじめよう と おもいます。
まず ぜんかい の でも で の かじょう けいび と いほう さつえい について。
われわれ の へいわ な でも にたいして かまぼこ しゃりょう を どういん し、 たくさん の こうあん けいさつ を はべらせて でも を いしゅく させよう と した きょうと ふけい にたいして いう。 でも は じんみん の じゆう だ!じゃま を するな!なに が 「きょか じょうけん」 だ!ふざけんな!
ひだり に よれだ の、 はやく あるけだ の、 けいさつ の しじ に したがえだ の、 さらに は こんかい にかんして は でも の かいし じこく と しゅうりょう じこく を げんしゅ しろとか いったい おまえら なにさま の つもり だ!
でも を おまえら が きょか し かんり できる もの だ と かんちがい するな!でも は じゆう だ!
きょか じょうけん を まもって いない から と いほう さつえい した こと も ゆるさん ぞ!
けいさつ による さつえい は、 「げんに はんざい が おこなわれ もしくは おこなわれた のち ま が ない と みとめられる ばあい であっ て、 しかも しょうこ ほぜん の ひつようせい および きんきゅうせい が あり、 かつ その さつえい が いっぱんてき に きょよう される げんど を こえない そうとう な ほうほう を もって おこなわれる とき である」 と されて おり、 これ は それ を みたさない かぎり は けいさつかん の さつえい は いほう である こと を しめして いる こと は ぜんかい も さいしょ に してき した はず だ ぞ!
けいさつ および こうあん いいんかい が かって に つくった きょか じょうけん を もって、 それ から の いつだつ を はんざいか するなど と は あたかも あきらか な けんりょく らんよう だ!
いま いちど いって おく。 でも は じんみん の じゆう だ!じゃま を するな!
いほう さつえい の でーた を われわれ の め の まえ で しょうきょ しろ!

さて、 けいさつ の おうぼう と いえば、 さいきん で は じんみん しんぶん へ の だんあつ が ありました。
でっちあげ の 「ようぎ」 をもって にっぽん ・ せかい で けんりょく に あらがう じんみん の すがた を つたえて きた めでぃあ にたいする こうけんりょく の だんあつ です。 じむしょ にたいして は かたく そうさ、 そして へんしゅうちょう は ふとう たいほ され、 こんげつ 11 にち に きそ まで されました。
けいさつ、 けんさつ、 しほう が いったい と なった この げんろん ・ せいじ だんあつ を わたしたち は ゆるさない ぞ!
きそ を とりさげ じんみん しんぶん へんしゅうちょう を かいほう しろ!

わたしたち の よう な はんにち ひこくみん の でも にたいする だんあつ や、 じんみん しんぶん といった さは めでぃあ にたいする かれつ な だんあつ に からめて いま から およそ 100 ねん まえに おきた だいぎゃく じけん を おもい かえして ほしい と おもいます。

てんのう あんさつ を くわだてた と されて、 こうとく しゅうすい を はじめ と する ぜんこく の しゃかい しゅぎしゃ や あなーきすとら を たいほ ・ きそ ・ しけい に した じけん です。

しゃかい しゅぎしゃ や あなーきすとら は てんのう の な において ころされました。
そして きょう 12 がつ 23 にち は へいせい てんのう あきひと の たんじょうび である こと を もって 「しゅくじつ」 と されて います。

わたしたち の しゃかい は いまだに てんのう ・ こうぞく にたいして 「へいか」 だの 「さま」 だの つけて、 うまれながら に とくべつ で えらい そんざい として あつかいます。
これ は みぶんせい です。 てんのうせい と は にんげん の びょうどう を はかい する せいど です。

にっぽん という こっか と その こくみん とうごう の しょうちょう と いちづけられて いる てんのう は これ まで も、 たよう な ここじん の あいだ に ある さい や そこ に しょうじる きんちょう かんけい を つつみかくし、 たんいつ で はいたてき な 「こくみん」 という しゅたい けいせい の ため に はたらいて きました。

この 「こくみん」 と は まさに こっか の ため に ころし、 ころされる こと を うけいれる せんそう に どういん される しゅたい に ほか なりません。 めいじ けんぽう じだい の 「しんみん」 から なまえ が かわろう と、 その ほんしつ は なに も かわって いない の です。

げんせいけん が もくろむ てんのう の げんしゅか と は この てんのう の やくわり を さらに はってん しんか させる もの です。

しょうちょう てんのうせい へ と いこう して 70 ねん が たつ なか で、 それ は あまりに わたしたち の せいかつ に ていちゃく して しまって います。 にっぽん で 「しゅくじつ」 と されて いる の は きょう も ふくめて その ほとんど が てんのう と かんけい して せいてい された もの であり、 「しょうわ」 や 「へいせい」 といった てんのうせい を きばん と した げんごう は にちじょうてき に つかわれます。 あきひと が けんぽう で せいげん された てんのう の けんげん を おおきく いつだつ して 「せいぜん たいい」 を ふくむ てんのうせい の こんご の ありかた について げんきゅう すれば、 めでぃあ も おおく の 「こくみん」 も その いけんせい を つっこむ こと も なく、 いちよう に りかい を しめす あり さま です。

「そんたく」 が りゅうこう わーど に なりました が、 れきしじょう これ ほど そんたく された もの は いない の で は ないでしょう か?
それほど じょうきょう は いびつ な の です。

にんげん の じゆう と びょうどう という げんそく が ぜんてい に たつべき はんせん ・ へいわ うんどう の なか において すら、 いまや、 あきひと は へいわ しゅぎしゃ で りべらる だ として、 あべ せいけん を ひはん する さい に もちあげられる しまつ です。

これ こそ れきし の ぎゃっこう です。
すでに 4 ねん まえ に は さんいん ぎいん の やまもと たろう が てんのう じきそ を おこした ほど です。

だいぎゃく じけん を もういちど おもい だして ください。 ひろひと の な において すいこう された しんりゃく せんそう の ひがいしゃ を おもい だして ください。

てんのうせい と は きょうふ と ぼうりょく によって ささえられて きました。 そして、 それ は 「せんご」 も かわらない はず です。
てんのう にたいする ひはん は ぶんがく さくひん から じゃーなりずむ、 えいが、 げいのう の せかい まで いたる ぶんや において も、 こうしつ にたいして 「ふけい」 と みなされた ひょうげん は しゅうげき の ひょうてき と なって きた の であり、 その なか に は ししゃ を だした じれい も あります。 1990 ねん に は とうじ の ながさき しちょう が、 しょうわ てんのう ひろ ひと の せんそう せきにん に ふれた こと で うよく から じゅうげき されました。

さくねん に は とうきょう で の はんてんのうせい を うったえる でも にたいして、 でも たい の くるま の ふろんと がらす を はかい したり ふしょうしゃ が でるほど の しゅうげき が くわえられました。 てんのうせい ひはん にたいする こうした たびかさなる しゅうげき に も かかわらず、 けいさつ は でもたい を だんあつ する こと は あって も うよく による しゅうげき について は せんたくてき に みのがして きて おり、 おおく の めでぃあ も また これ に ちんもく を つらぬいて きました。

てんのうせい の ぼうりょくせい は せんぜん から その ほんしつ において かわらず に つづいて いる の です。

あきひと は へいわ しゅぎしゃ で りべらる?あまりに なんせんす!
てんのう と は その そんざい ようしき それ じたい が はんどう な の です。
なるほど、 あきひと は その そふと な かたりくち で、 へいわ に むけて の いのり や、 へいわ けんぽう を だいじ に して ほしい という ふう な こと を くち に するか も しれません が、 むしろ あきひと が ぜったい に みとめない こと の ほう に いみ が あり、 それ こそ が てんのう の せんそう せきにん です。
あきひと の てんのう という ちい は、 せんそう せきにんしゃ である しょうわ てんのう ひろひと から けいしょう した もの であり、 けっきょく の ところ しょうちょう てんのうせい が しょうちょう する もの と は、 しょくみんち しはい と しんりゃく せんそう にたいする 「せんご」 にっぽん しゃかい の いっかん した むせきにん の たいけい です。 ひろひと に は へいし も みんかんじん も ふくめた じこく の せんそう ぎせいしゃ、 とくに、 はいせん を いたずら に おくらせ せんか を もとめて おきなわ を すていし と した おきなわせん と、 ひろしま ・ ながさき の げんばく とうか を ふくめて せきにん が あります。
しょうちょう てんのうせい と は こうした ひろひと の せんそう せきにん を めんせき する かたち で てんのうせい を えんめい させる ため の せいど であった の であり、 その ため に ひろひと は また して も おきなわ を にっぽん から きりはなし きち の しま として あめりか に さしだした の です。

もう こんな てんのうせい に うんざり だ。 てんのうせい を きょよう しつづける にっぽん しゃかい に うんざり だ!

てんのうせい と は みぶんせい の しょうちょう です。
てんのうせい と は じょせい を よくあつ する かふちょうせい の しょうちょう です。
てんのうせい と は けいぞく する しょくみんち しゅぎ の しょうちょう です。
てんのうせい と は おきなわ さべつ の しょうちょう です。
てんのうせい と は しんりゃく せんそう ・ しょくみんち しはい にたいする せんご の むせきにん の しょうちょう です。
わたしたち は てんのうせい を はいし します。 そして、 「こくみん」 として とうごう される こと を うけいれて いきる すべて の もの に みずから を じんみん へ と かいほう して いく こと を よびかけます。
ともに、 かいほう の でも を あるきましょう!





この ひ、 せいふく を きた けいび の けいかん の かず や その 「めいれいっぷり」「しじっぷり」 は、 これ まで と そう かわらない もの だった の です が、 えんどう の しょうてんがい を あるきながら、 でも を さつえい して くる こうあん けいさつ と おぼしき ひとかげ が … …!
くりかえします が、 よほど の ようけん を みたさない かぎり、 けいさつかん による でも の さつえい は いほう です。 でも さんかしゃ にたいする じんけん しんがい です。 とうぜん、 わたしたち は つよく つよく こうぎ しました。 もちろん、 いほう な さつえい を した けいさつかん にたいして も 「さつえい やめなさい」「さつえい した でーた を いま ここ で けしなさい」 と こうぎ しました が、 ほか の けいかんたち に も 「いほう こうい を みて みぬ ふり するな」 と くりかえし くりかえし こうぎ しました。 ところが、 けいかんたち は なかま の いほう こうい は しらんぷり、 わたしたち の こうぎ も むし しつづけました。 けいさつ が みうち (けいさつかん や うよく) の いほう は かばうという じつれい を また まのあたり に しました。 め の まえ で いほう こうい が おこなわれて いた ん だ から、 きょうと ふけい も ちゃんと とりしまって くださいね。


さて、 こんかい、 すぴーち と しゅぷれひこーる いがい に も、 できるだけ おおく の さんかしゃ の みなさん に じぶん の ことば で あぴーる して もらおう という こと で、 でもない とくべつ きかく 「あなた の はんてんのうせい は どこ から?」 を おこないました。

「あなた の はんてんのうせい は どこ から?」
「わたし は、 しょくみんち さべつ から!… あなた の はんてんのうせい は どこ から?」
「わたし は、 『たいそう の れい』 が きもち わるかっ た から!… あなた の はんてんのうせい は どこ から?」
「わたし は …

といった ぐあい に、 とら めが を どんどん まわして いきます。
「てんのうせい はんたい」 に さんどう して いる みなさん も、 その きっかけ は さまざま。 まったく おなじ ひと は ひとり も いません。 それほど に、 てんのうせい は わたしたち の しゃかい に さまざま な さべつ を つくり、 わたしたち が おもう よう に いきる こと を よくあつ し、 それら を うけいれさせて いる の です。



《しゅぷれひこーる》
ひのまる を   やこう   やぶこう   おろそう よ
きみがよ を   ながす の やめろ   うたわん ぞ
てんのうせい   さべつ の こんげん   なくそう よ
「へいか」 とか  「さま」「さま」 つけるの   やめましょう
「こくみん」 に   とうごう される の   きょひ しよう
やすくに は   ぐんじ しせつ だ   つぶそう よ
にゅうかん は   さつじん しせつ だ   つぶそう よ
べいぐん の   おしつけ ゆるさん   おきなわ へ
べいぐん は   せかい の どこ に も   いらない ぞ
じえいたい   にっぽん の ぐんたい   なくそう よ
ちょうせん の   てきし を やめろ   いま すぐ に
こくせき で   ひと の いきかた   せばめるな
はいし しよう   さべつ を うみだす   こせき せいど
やめ に しよう   はいじょ の さいてん   おりんぴっく




なにやら 「しゅくじつ」 という こと で、 しょうてんがい の あーけーど の すべて の はしら に は 「ひのまる」 が ていねい に くくりつけられて います。 それら にたいして 「ひのまる を   やこう   やぶこう   おろそう よ」 と さけぶ わたしたち に、 えんどう の みなさん は、 もしか したら ぎょっと した かも しれません。 でも、 そんな なか で も、 えんどう から、 あるいは すれちがう くるま から 「がんばって ー」 という あたたかい せいえん が とんで きます。
おおきな こうさてん に さしかかる たび に、 でも の さんかしゃ は 1 り ふえ 2 り ふえ …。 しじょう おおはし を わたりきる ころ に は、 でも の たいれつ は かたがわ 2 しゃせん いっぱい に ひろがって、 でも の じゆう を、 てんのうせい から の じゆう を たからか に さけんで いました。

わたしたち は、 てんのうせい を、 はいし します!

… … … … はいし しました!!!

この ひ、 きょうと ・ ぎおん で、 てんのうせい が はいし されました。





「てんのうせい を はいし します!」「てんのうせい を はいし しました!」 その とき さけんだ の は、 ひとり だった かも しれません。 でも、 この ことば を、 この くに の おおく の ひとびとが くち に する とき、 ほんとう に てんのうせい は はいし と なり、 ” こくみん” は じんみん へ と かいほう されるでしょう。

「あなた の はんてんのうせい は どこ から?」
「わたし は、 ここ から。 」

いま、 ここ から。 あなた の いる、 そこ から、 てんのうせい はいし を。
たくさん の ごさんか、 ありがとう ございました。 また こんど ね。

2017年12月23日*反天皇デモ

つぎ の きじ(http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20180129/1517192341) は かんじ なし ばーじょん です。

*********


はんにちわー!
はんにちわー!
はんにちわー!

1年以上のごぶさたでしたが、反日非国民のみなさま、いかがお過ごしでしょうか。
さる12月23日、「自由と人権は『国民』の占有物ではないと考えるひとびと」は、なんと2年3か月ぶりにデモをおこないました。この日に掲げるのはもちろん「天皇制反対!」。師走の京都を熱くしたデモの報告です。



日ごろの反日活動の成果でしょうか、空はすっきりと晴れ、日ざしがまぶしい三条河川敷に約20名が集合しました。この日のために新調したプラカード、バナーもおひろめです。





出発のちょっと前には、いつものごとく呼んでもいないのに中京署の警官たちがやってきます。警官たちのうちの1名が近づいてきて、なかまのひとりに書類を事務的に交付し、もどっていきました。(※これについては http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/touch/20180205/1517823522 で詳しく説明します。)さあ、準備は整いました。デモのはじまりです。

河川敷から三条通りに上がり、河原町通りへ。繁華街に太鼓の音を響かせながら進みます。先日おこなわれた別のデモでは、そう多くもない参加者に対し、大型人員輸送車(通称「カマボコ」)が、まるで参加者を食べようとするかのようにうしろをついてきていたのですが、今日は姿が見えません。
ほんらい、デモは自由なもの。歩く速さも自由、道路のはばをどこからどこまで使うかも自由です。「もっと左へ寄って!」とか「速く歩いて!」とか指示されるいわれはありません。大きなクルマでうしろから追い立てるなんてもってのほかです。デモのスピーチは、そうやって私たちの自由を奪おうとする警察への怒りからはじまりました。



《スピーチ》
はんにちわー!は・ん・に・ち・わー!
反日非国民のデモが始まります!
さて、今日もまずは警察への文句から始めようと思います。
まず前回のデモでの過剰警備と違法撮影について。
我々の平和なデモに対してカマボコ車両を動員し、たくさんの公安警察をはべらせてデモを萎縮させようとした京都府警に対して言う。デモは人民の自由だ!邪魔をするな!なにが「許可条件」だ!ふざけんな!
左に寄れだの、早く歩けだの、警察の指示に従えだの、さらには今回に関してはデモの開示時刻と終了時刻を厳守しろとか一体お前ら何様のつもりだ!
デモをお前らが許可し管理できるものだと勘違いするな!デモは自由だ!
許可条件を守っていないからと違法撮影したことも許さんぞ!
警察による撮影は、「現に犯罪が行われもしくは行われたのち間がないと認められる場合であって、しかも証拠保全の必要性及び緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度を超えない相当な方法を持って行われるときである」とされており、これはそれを満たさない限りは警察官の撮影は違法であることを示していることは前回も最初に指摘したはずだぞ!
警察および公安委員会が勝手に作った許可条件をもって、それからの逸脱を犯罪化するなどとはあたかも明らかな権力乱用だ!
今一度言っておく。デモは人民の自由だ!邪魔をするな!
違法撮影のデータを我々の目の前で消去しろ!

さて、警察の横暴といえば、最近では人民新聞への弾圧がありました。
でっち上げの「容疑」をもって日本・世界で権力に抗う人民の姿を伝えてきたメディアに対する公権力の弾圧です。事務所に対しては家宅捜査、そして編集長は不当逮捕され、今月11日に起訴までされました。
警察、検察、司法が一体となったこの言論・政治弾圧を私たちは許さないぞ!
起訴を取り下げ人民新聞編集長を解放しろ!

私たちのような反日非国民のデモに対する弾圧や、人民新聞といった左派メディアに対する苛烈な弾圧に絡めて今からおよそ100年まえに起きた大逆事件を思い返して欲しいと思います。

天皇暗殺を企てたとされて、幸徳秋水をはじめとする全国の社会主義者アナーキストらを逮捕・起訴・死刑にした事件です。

社会主義者アナーキストらは天皇の名において殺されました。
そして今日12月23日は平成天皇明仁の誕生日であることをもって「祝日」とされています。

私たちの社会はいまだに天皇・皇族に対して「陛下」だの「様」だのつけて、生まれながらに特別で偉い存在として扱います。
これは身分制です。天皇制とは人間の平等を破壊する制度です。

日本という国家とその国民統合の象徴と位置付けられている天皇はこれまでも、多様な個々人の間にある差異やそこに生じる緊張関係を包み隠し、単一で排他的な「国民」という主体形成のために働いてきました。

この「国民」とはまさに国家のために殺し、殺されることを受け入れる戦争に動員される主体に他なりません。明治憲法時代の「臣民」から名前が変わろうと、その本質は何も変わっていないのです。

現政権が目論む天皇の元首化とはこの天皇の役割をさらに発展深化させるものです。

象徴天皇制へと以降して70年が経つなかで、それはあまりに私たちの生活に定着してしまっています。日本で「祝日」とされているのは今日も含めてそのほとんどが天皇と関係して制定されたものであり、「昭和」や「平成」といった天皇制を基盤とした元号は日常的に使われます。明仁憲法で制限された天皇の権限を大きく逸脱して「生前退位」を含む天皇制の今後の在り方について言及すれば、メディアも多くの「国民」もその違憲性をつっこむこともなく、一様に理解を示すありさまです。

「忖度」が流行ワードになりましたが、歴史上これほど忖度されたものはいないのではないでしょうか?
それほど状況は歪なのです。

人間の自由と平等という原則が前提に立つべき反戦平和運動のなかにおいてすら、今や、明仁は平和主義者でリベラルだとして、安倍政権を批判する際に持ち上げられるしまつです。

これこそ歴史の逆行です。
既に4年前には参院議員の山本太郎天皇直訴を起こしたほどです。

大逆事件をもう一度思い出してください。裕仁の名において遂行された侵略戦争の被害者を思い出してください。

天皇制とは恐怖と暴力によって支えられてきました。そして、それは「戦後」もかわらないはずです。
天皇に対する批判は文学作品からジャーナリズム、映画、芸能の世界までいたる分野においても、皇室に対して「不敬」とみなされた表現は襲撃の標的となってきたのであり、そのなかには死者を出した事例もあります。1990年には当時の長崎市長が、昭和天皇ヒロヒトの戦争責任に触れたことで右翼から銃撃されました。

昨年には東京での反天皇制を訴えるデモに対して、デモ隊の車のフロントガラスを破壊したり負傷者が出るほどの襲撃が加えられました。天皇制批判に対するこうした度重なる襲撃にも関わらず、警察はデモ隊を弾圧することはあっても右翼による襲撃については選択的に見逃してきており、多くのメディアもまたこれに沈黙を貫いてきました。

天皇制の暴力性は戦前からその本質において変わらずに続いているのです。

明仁は平和主義者でリベラル?あまりにナンセンス!
天皇とはその存在様式それ自体が反動なのです。
なるほど、明仁はそのソフトな語り口で、平和にむけての祈りや、平和憲法を大事にして欲しいという風なことを口にするかもしれませんが、むしろ明仁が絶対に認めないことのほうに意味があり、それこそが天皇の戦争責任です。
明仁天皇という地位は、戦争責任者である昭和天皇裕仁から継承したものであり、結局のところ象徴天皇制が象徴するものとは、植民地支配と侵略戦争に対する「戦後」日本社会の一貫した無責任の体系です。裕仁には兵士も民間人も含めた自国の戦争犠牲者、特に、敗戦をいたずらに遅らせ戦果を求めて沖縄を捨石とした沖縄戦と、広島・長崎の原爆投下を含めて責任があります。
象徴天皇制とはこうした裕仁の戦争責任を免責する形で天皇制を延命させるための制度であったのであり、そのために裕仁はまたしても沖縄を日本から切り離し基地の島としてアメリカに差し出したのです。

もうこんな天皇制にうんざりだ。天皇制を許容し続ける日本社会にうんざりだ!

天皇制とは身分制の象徴です。
天皇制とは女性を抑圧する家父長制の象徴です。
天皇制とは継続する植民地主義の象徴です。
天皇制とは沖縄差別の象徴です。
天皇制とは侵略戦争・植民地支配に対する戦後の無責任の象徴です。
私たちは天皇制を廃止します。そして、「国民」として統合されることを受け入れて生きるすべてのものに自らを人民へと解放していくことを呼びかけます。
ともに、解放のデモを歩きましょう!




この日、制服を着た警備の警官の数やその「命令っぷり」「指示っぷり」は、これまでとそう変わらないものだったのですが、沿道の商店街を歩きながら、デモを撮影してくる公安警察と思しき人影が……!
繰り返しますが、よほどの要件を満たさない限り、警察官によるデモの撮影は違法です。デモ参加者に対する人権侵害です。当然、私たちは強く強く抗議しました。もちろん、違法な撮影をした警察官に対しても「撮影やめなさい」「撮影したデータを今ここで消しなさい」と抗議しましたが、他の警官たちにも「違法行為を見て見ぬふりするな」とくり返しくり返し抗議しました。
ところが、警官たちは仲間の違法行為は知らんぷり、私たちの抗議も無視しつづけました。警察が身内(警察官や右翼)の違法はかばうという実例をまた目の当たりにしました。目の前で違法行為が行われていたんだから、京都府警もちゃんと取り締まってくださいね。


さて、今回、スピーチとシュプレヒコール以外にも、できるだけ多くの参加者のみなさんに自分のことばでアピールしてもらおうということで、デモ内特別企画「あなたの反天皇制はどこから?」を行いました。

「あなたの反天皇制はどこから?」
「私は、植民地差別から!…あなたの反天皇制はどこから?」
「私は、『大喪の礼』が気持ち悪かったから!…あなたの反天皇制はどこから?」
「私は…

といった具合に、トラメガをどんどんまわしていきます。
天皇制反対」に賛同しているみなさんも、そのきっかけはさまざま。まったく同じひとはひとりもいません。それほどに、天皇制は私たちの社会にさまざまな差別をつくり、私たちが思うように生きることを抑圧し、それらを受け入れさせているのです。




シュプレヒコール
日の丸を 焼こう 破こう 降ろそうよ
君が代を 流すのやめろ 歌わんぞ
天皇制 差別の根源 なくそうよ
「陛下」とか 「様」「様」つけるの やめましょう
「国民」に 統合されるの 拒否しよう
ヤスクニは 軍事施設だ つぶそうよ
入管は 殺人施設だ つぶそうよ
米軍の 押しつけゆるさん 沖縄へ
米軍は 世界のどこにも いらないぞ
自衛隊 日本の軍隊 なくそうよ
朝鮮の 敵視をやめろ いますぐに
国籍で ひとの生き方 せばめるな
廃止しよう 差別を生み出す 戸籍制度
やめにしよう 排除の祭典 オリンピック




なにやら「祝日」ということで、商店街のアーケードのすべての柱には「日の丸」がていねいにくくりつけられています。それらに対して「日の丸を 焼こう やぶこう おろそうよ」と叫ぶ私たちに、沿道のみなさんは、もしかしたらぎょっとしたかもしれません。でも、そんな中でも、沿道から、あるいはすれ違うクルマから「がんばってー」というあたたかい声援がとんできます。
大きな交差点にさしかかるたびに、デモの参加者は1人増え2人増え…。四条大橋を渡りきるころには、デモの隊列は片側2車線いっぱいにひろがって、デモの自由を、天皇制からの自由を高らかにさけんでいました。

私たちは、天皇制を、廃止します!

…………廃止しました!!!

この日、京都・祇園で、天皇制が廃止されました。





天皇制を廃止します!」「天皇制を廃止しました!」そのとき叫んだのは、ひとりだったかもしれません。でも、このことばを、この国の多くのひとびとが口にするとき、ほんとうに天皇制は廃止となり、”国民”は人民へと解放されるでしょう。

「あなたの反天皇制はどこから?」
「私は、ここから。」

いま、ここから。あなたのいる、そこから、天皇制廃止を。
たくさんのご参加、ありがとうございました。また今度ね。

活動記「反日です。」公開/かつどうき 「はんにち です。」 こうかい

*****2つめ は かんじ つかって ません*****

はんにちは。
みなさん、ご無沙汰しております。
前回ブログでちらっとご紹介した冊子ですが、このたびネットからPDFでダウンロードできるようにいたしました。

以下リンクよりどうぞ。
https://drive.google.com/open?id=0B0Wdw50MpX-yUC16LUtFazZLM0E
※表紙を除く、イラストや画像のみの転載はご遠慮ください。

この間、冊子を手に取っていただいた皆さんより、冊子のすべての漢字にルビが振られていることについての反応が大きかったように思います。
ルビ振り作業、正直大変でした。

だいぶ助けてくれたサイトをここに紹介します。
【ふりがなさん】:http://furi.mttbx.net/
ぜひご活用ください。

*****かんじ つかって ません*****

はんにちは。
みなさん、 ごぶさた して おります。
ぜんかい ぶろぐ で ちらっと ごしょうかい した さっし です が、 この たび ねっと から PDF で だうんろーど できる よう に いたしました。

いか りんく より どうぞ。
https://drive.google.com/open?id=0B0Wdw50MpX-yUC16LUtFazZLM0E
※ ひょうし を のぞく、 いらすと や がぞう のみ の てんさい は ごえんりょ ください。

このかん、 さっし を て に とって いただいた みなさん より、 さっし の すべて の かんじ に るび が ふられて いる こと について の はんのう が おおきかっ た よう に おもいます。
るび ふり さぎょう、 しょうじき たいへん でした。

だいぶ たすけて くれた さいと を ここ に しょうかい します。
【ふりがなさん】:http://furi.mttbx.net/
ぜひ ごかつよう ください。

活動記「反日です。」公開/かつどうき 「はんにち です。」 こうかい

*****2つめ は かんじ つかって ません*****

はんにちは。
みなさん、ご無沙汰しております。
前回ブログでちらっとご紹介した冊子ですが、このたびネットからPDFでダウンロードできるようにいたしました。

以下リンクよりどうぞ。
https://drive.google.com/open?id=0B0Wdw50MpX-yUC16LUtFazZLM0E
※表紙を除く、イラストや画像のみの転載はご遠慮ください。

この間、冊子を手に取っていただいた皆さんより、冊子のすべての漢字にルビが振られていることについての反応が大きかったように思います。
ルビ振り作業、正直大変でした。

だいぶ助けてくれたサイトをここに紹介します。
【ふりがなさん】:http://furi.mttbx.net/
ぜひご活用ください。

*****かんじ つかって ません*****

はんにちは。
みなさん、 ごぶさた して おります。
ぜんかい ぶろぐ で ちらっと ごしょうかい した さっし です が、 この たび ねっと から PDF で だうんろーど できる よう に いたしました。

いか りんく より どうぞ。
https://drive.google.com/open?id=0B0Wdw50MpX-yUC16LUtFazZLM0E
※ ひょうし を のぞく、 いらすと や がぞう のみ の てんさい は ごえんりょ ください。

このかん、 さっし を て に とって いただいた みなさん より、 さっし の すべて の かんじ に るび が ふられて いる こと について の はんのう が おおきかっ た よう に おもいます。
るび ふり さぎょう、 しょうじき たいへん でした。

だいぶ たすけて くれた さいと を ここ に しょうかい します。
【ふりがなさん】:http://furi.mttbx.net/
ぜひ ごかつよう ください。

これまでの活動をまとめた活動記ができました!/これまでの かつどう を まとめた かつどうき が できました!


*****2つめ は かんじ つかって ません*****


自由と人権は「国民」の占有物ではないと考えるひとびとの活動記「反日です。」ができあがりました!

全72ページ!(だいたい)
これまでのデモの趣旨文(どれも長〜い)や賛同メッセージに加え、
1月に行った「反日カフェ」での熱い討議の書き起こしなどが収録されています。
この冊子のために書き下ろしたコラムやイラストもたっぷり!
あのうわさの生物の新形態も確認できるよ!

内容を少しだけご紹介



「これはほしい!」ですよねー!!!
私たちも、できるだけ多くの方に手にとってもらいたいと思っていますが、
すべての工程を手づくりで行っているため、まずは少部数での刊行となりました。
私たちが行うデモや街宣等の活動の場で、手渡しで頒布する予定です。
(その際は、できればコピー代程度のカンパをお願いしますね)

遠方にお住まいなど、直接会う機会がないみなさんへの頒布方法は、
今後検討していきます。
手軽な頒布方法のアイディア等ありましたら、ぜひご意見をお寄せください。


*****かんじ つかって ません*****


じゆう と じんけん は 「こくみん」 の せんゆうぶつ では ない と かんがえる ひとびと の かつどうき 「はんにち です。」 が できあがりました!

ぜん72ぺーじ!(だいたい)

これまで の でも の しゅしぶん (どれもなが〜い) や さんどう めっせーじ に くわえ、
1がつ に おこなった 「はんにちかふぇ」 での あつい とうぎ の かきおこし など が しゅうろく されて います。
この さっし の ために かきおろした こらむ や いらすと も たっぷり!
あの うわさ の せいぶつ の しんけいたい も かくにん できるよ! 
ないよう を すこし だけ ごしょうかい 



「これはほしい!」ですよねー!!!
わたしたち も、 できるだけ おおく の かた に て に とって もらいたい と おもっていますが、 すべて の こうてい を てづくり で おこなって いる ため、 まず は しょうぶすう での かんこう と なりました。
わたしたち が おこなう でも や がいせん とう の かつどう の ば で、 てわたし ではんぷ する よてい です。
(そのさいは、できれば こぴーだい ていど の かんぱ を おねがいしますね)
えんぽう に おすまいなど、 ちょくせつ あう きかい が ない みなさん への はんぷほうほうは、 こんご けんとう していきます。
てがる な はんぷほうほう の あいでぃあ とう ありましたら、 ぜひ ごいけん を およせください。