MSさんからのメッセージ

MSさんよりメッセージをいただきましたので、しょうかいします。(2つめはぜんぶん、ひらがな)

******かんじ、つかってます*****

 「反在特会」一点が焦点化され歴史修正主義(者)の問題を問わず、だれからだれに対してなのか曖昧なまま、だれもが一様に「仲良くしようぜ」と呼びかけるパレードは、平和的で非政治的なイメージを振りまきながら、その実、朝鮮人に対する差別と弾圧を生み出してきた旧宗主国(人)である日本(人)の歴史的責任を曖昧にし、それを問うべき旧植民地出身者である在日朝鮮人の歴史的・政治的主体性を溶解させていく危険な政治性を内包しており、したがってそれは反植民地主義の「入口」になりうるものではなく、こうした動きが大きな力を持っていくことに、むしろ深刻な危機意識を感じています。
 歴史的問題を封殺していく形で形成される「仲の良さ」とは、結局、日本が戦後、侵略責任を全く問わせない形でアジア諸国と「和解」を強行してきた流れと相似形であり、朝鮮民主主義人民共和国との講和が終わっていない日本にとってそれは格好の援護射撃であり、歴史的問題を問わせない形での「国交正常化」を進める地ならしとして機能するでしょう。事実、歴史的問題を取り上げ「仲良くしようぜ」パレードを批判する人たちを「ヘサヨ」という造語でくくってその批判を無化するようなふるまいは、すでにこうした未来を体現しています。
 日本人の特権的生と自ら対峙することなく差別と「闘う」ことができるこのような場ほど「心地よい」場はないでしょう。日々差別に直面してきた朝鮮人にとっても「仲間」を感じる「心地よい」場かもしれません。しかしそれは植民地主義につながる、朝鮮人を分断する罠です。
 わたしは、むしろ日本(人)にとって心地の悪い存在として、居直り続ける日本(人)の歴史的責任を問い続けたい。そう思います。

******ぜんぶんひらがな*****

 「はん ざいとくかい」いってんが しょうてんか され れきし しゅうせい しゅぎ(しゃ)の もんだいを とわず、だれから だれに たいして なのか あいまいな まま、だれもが いちように 「なかよくしようぜ」と よびかける ぱれーどは、へいわてきで ひ せいじてきな いめーじを ふりまきながら、そのじつ、ちょうせんじんに たいする さべつと だんあつを うみだしてきた きゅう そうしゅこく(じん)である にほん(じん)の れきしてき せきにんを あいまいにし、それを とうべき きゅう しょくみんち しゅぎしゃ である ざいにち ちょうせんじんの れきしてき・せいじてき しゅたいせいを ようかい させていく きけんな せいじせいを ないほう しており、したがって それは はん しょくみんち しゅぎの「いりぐち」に なりうる ものでは なく、こうした うごきが おおきな ちからを もって いくことに、むしろ しんこくな きき いしきを かんじて います。
 れきしてき もんだいを ふうさつ して いく かたちで けいせい される「なかの よさ」とは、けっきょく、にほんが せんご、しんりゃく せきにんを まったく とわせない かたちで あじあ しょこくと「わかい」を きょうこう してきた ながれと そうじけい であり、ちょうせん みんしゅ しゅぎ じんみん きょうわこく との こうわが おわって いない にほんに とって それは かっこうの えんご しゃげき であり、れきしてき もんだいを とわせない かたちでの「こっこう せいじょうか」を すすめる じならし として きのう するでしょう。じじつ、れきしてき もんだいを とりあげ「なかよくしようぜ」ぱれーどを ひはん する ひとたちを「へさよ」という ぞうごで くくって その ひはんを むかする ような ふるまいは、すでに こうした みらいを たいげん して います。
 にほんじんの とっけんてき せいと みずから たいじ すること なく さべつと「たたかう」ことが できる このような ば ほど「ここちよい」ば は ないでしょう。ひび さべつに ちょくめん してきた ちょうせんじんに とっても「なかま」を かんじる「ここちよい」ば かも しれません。しかし それは しょくみんち しゅぎに つながる、ちょうせんじんを ぶんだん する わな です。
 わたしは、むしろ にほん(じん)に とって ここちの わるい そんざいと して、いなおり つづける にほん(じん)の れきしてき せきにんを とい つづけたい。そう おもいます。