マサキチトセさんからのメッセージ

マサキチトセさんよりメッセージをいただきましたので、しょうかいします。(2つめはぜんぶん、ひらがな)

******かんじ、つかってます*****

私は反日です。
日本の国籍を持っている私は、とても多くの点において特権的な立場にいます。「私は反日です」とこうして公の場に書くことができることすら、日本の国籍を持っていなければ、この日本の在特社会からの報復を恐れて躊躇するかもしれません。具体的な制度による差別のほか、こうして自由に発言することすら抑圧しうるほど、日本において日本の国籍を持っていないということは、当然の権利や尊厳を奪われている状態であると言えます。
また一方で、日本の国籍を持っていてすら、日本の在特社会からの攻撃を免れない人たちもいます。日本以外のルーツを持つ人や、そうだと周囲が思う人、通っている学校や話している言語などから日本以外のルーツを持つことが類推される人、つまり所謂「日本人」として日本の正規メンバーとして見なされない人たちは、国籍を確認されるまでもなく、在特社会の攻撃の対象であるか、いつ対象になるか分からない保留状態に置かれているかと思います。
そして私は、かつて個別の文脈で韓国人やナイジェリア人、ネイティブ・アメリカンだと間違えられたことがあるだけで、普段の生活は「日本人」として日本の正規メンバーとして見なされて生きています。
私が非常に特権的な立場にいることは明らかで、このたび「私は反日です」と言うことができることの背景には、そうした状況が私にそれを許しているという側面が大きく存在します。
しかし私は、日本が在特社会であり続ける限り、その「日本」には「反対」という意味で、反日です。
現在の日本において、特に「日本人」として日本の正規メンバーとして見なされている人は、明確に「反日です」と言わない限り、程度の差はあれ愛国者であるのが当然であると考えられているように感じます。政府の個別の行為に反対意見を持っていてもそれは「日本のため」の愛国的批判であると、本人も周囲も思っていたりします。
そんな中で、反日であることを伏せて——あるいは本当に反日ではない立場から——民族差別や人種差別に反対することは、愛国者と見なされ得る、守られた特権的立場にい続けることでもあります。愛国者と見なされ在特社会に守られる特権と、「私は反日です」と報復を恐れず言える特権であれば、(本当はどちらも存在してはならないものですが)私は前者を手放し、後者を行使することを選択します。私が日本の在特社会に反対する理由は、「他民族にやさしい」「他民族に寛容な」「他民族と仲良くする」より良い日本をつくるためではないから——「より良い日本」のために、日本の正規メンバーと見なされていない人たちを利用するためではないから——です。
「より良い日本」でも今よりはマシだから、愛国的批判を通してでもいいから日本を変えたい——そういう意見もあるでしょう。私はそれを全否定するつもりはありません。個別具体的な短期的目標のためであれば、私もそのような(大枠を維持したまま「よりマシな○○」を求める)立場を採ることがあります。また、そのような活動をされている人たちを尊敬してもいます。
一方で、短期的目標には常に優先順位がつけられます。誰のことも取りこぼさない、置いてきぼりにしないような短期的目標というのは、ほとんどありません。短期的目標を設定した瞬間に、私たちはたいてい誰かを排除しています。そんな自分の優先順位を正当化するのではなく、自分の決断に責任を持つことが必要であると私は考えています。
愛国者と見なされ在特社会に守られる特権を手放し、「私は反日です」と報復を恐れず言える特権を行使する私には、その決断に伴って責任が生じます。具体的には、反日的批判よりも在特社会に受け入れられやすい愛国的批判をしないことによって、現在盛り上がっている反レイシズム運動とそれによる短期的目標の達成に寄与しないことを選択していること、そしてそれ故に、今正に起きている局所的な差別加害を止めるための行動が日常生活上のものに限定されていることに、責任が生じています。
一方で、愛国者と見なされ在特社会に守られる特権を選び、「私は反日です」と報復を恐れず言える特権を行使しない運動をする「日本人」という日本の正規メンバーたちも、その決断に伴って責任が生じます。具体的には、愛国者/非愛国者、非反日反日、ひいては正規メンバー/非正規メンバーという、私たちの分断線を維持・強化し、排除を伴う運動形態を選択していることに責任が生じています。また、反日ではない愛国者の立場を維持するために、侵略戦争、植民地支配、戦後の外交体制、高度経済成長に伴う他国への経済的搾取などの「日本」の名のもとに連綿と行われて来た加害行為を、現代の民族差別・人種差別から切り離し、運動の射程に含めない(あるいは含めない場合にその正当性を当然視
する)ことで容認していることにも、責任が生じています。
誰しも社会運動にかかわる人は、こうして自らの決断に伴う責任を背負っています。決断をしないことにも、決断しないという決断に伴う責任が生じていると言えるでしょう。それぞれの決断には個々人の強い思いがあり、その決断自体は尊重されるべきであると思います。その上で、各自譲れないところを守りつつ、どう責任を取るのかが重要になります。
今回の「(通称)反日デモ」に参加したり、賛同したりする人にも、そうすることによる責任が生じています。その責任をどう果たすのか、譲れない部分を譲らない分、他のどういうところでその償いをするのか、ということを、私を含め、このデモに参加したり賛同する「日本人」とされる日本の正規メンバーが、継続して考え、行動に移して行けたらと思います。
(このメッセージにおいて、私は「日本人」という日本の正規メンバーの責任についてのみ言及しており、その点で、「日本人」中心主義的な側面を免れません。私自身が「日本人」としての立場から語れることを考えた結果このようなメッセージとなったわけですが、民族差別や人種差別について話すときですら「日本人」が主体となるということは本来間違っていると思います。自らの立場から民族差別・人種差別について語ること、語れることは何か、継続して考える必要があると痛感しています。)

マサキチトセ





はんにちデモ メッセージ
わたしゎ はんにちです。
にほんのこくせきぉ もっている わたしゎ、とても おーくのてんにおいて とっけんてきな たちばにいます。「わたしゎ はんにちです」と こーして おーやけのばに かくことができることすら、にほんのこくせきぉ もっていなければ、この にほんの ざいとくしゃかいからの ほーふくぉ おそれて ちゅーちょするかもしれません。ぐたいてきな せーどによる さべつのほか、こーして じゆーに はつげんすることすら よくあつしうるほど、にほんにおいて にほんのこくせきぉ もっていないとゆーことゎ、とーぜんのけんりや そんげんぉ うばわれている じょーたいであると いえます。
またいっぽーで、にほんのこくせきぉ もっていてすら、にほんの ざいとくしゃかいからの こーげきぉ まぬがれないひとたちもいます。にほんいがいの ルーツぉ もつひとや、そーだと しゅーいが おもうひと、かよっている がっこーや はなしている げんごなどから にほんいがいの ルーツぉ もつことが るいすいされるひと、つまり いわゆる 「にほんじん」として にほんの せーきメンバーとして みなされない人たちゎ、こくせきぉ かくにんされるまでもなく、ざいとくしゃかいの こーげきの たいしょーであるか、いつ たいしょーになるか わからない ほりゅーじょーたいに おかれているかと おもいます。
そして わたしゎ、かつて こべつの ぶんみゃくで かんこくじんや ナイジェリアじん、ネイティブ・アメリカンだと まちがえられたことが あるだけで、ふだんの せーかつゎ 「にほんじん」として にほんのせーきメンバーとして みなされて いきています。
わたしが ひじょーに とっけんてきなたちばにいることゎ あきらかで、このたび 「わたしゎ はんにちです」と いうことができることの はいけーにゎ、そーした じょーきょーが わたしに それぉ ゆるしているとゆー そくめんが おーきく そんざいします。
しかしわたしゎ、にほんが ざいとくしゃかいで ありつづけるかぎり、その 「にほん」にゎ 「はんたい」とゆー いみで、はんにちです。
げんざいのにほんにおいて、とくに 「にほんじん」として にほんの せーきメンバーとして みなされているひとゎ、めーかくに 「はんにちです」と いわないかぎり、てーどのさゎあれ あいこくしゃであるのが とーぜんであると かんがえられているように かんじます。せーふの こべつの こーいに はんたいいけんぉ もっていても それゎ 「にほんのため」の あいこくてきひはんであると、ほんにんも しゅーいも おもっていたりします。
そんななかで、はんにちであることぉ ふせて——あるいゎ ほんとーに はんにちでゎない たちばから——みんぞくさべつや じんしゅさべつに はんたいすることゎ、あいこくしゃと みなされうる、まもられた とっけんてきたちばに いつづけることでもあります。あいこくしゃと みなされ ざいとくしゃかいに まもられる とっけんと、「わたしゎ はんにちです」と ほーふくぉ おそれず いえる とっけんであれば、(ほんとーゎ どちらも そんざいしてゎならないもの ですが)わたしゎ ぜんしゃぉ てばなし、こーしゃぉ こーしすることぉ せんたくします。わたしが にほんの ぜいとくしゃかいに はんたいする りゆーゎ、「たみんぞくに やさしい」「たみんぞくに かん
よーな」「たみんぞくと なかよくする」よりよいにほんぉ つくるためでゎないから——「よりよいにほん」のために、にほんの せーきメンバーと みなされていないひとたちぉ りよーするためでゎないから——です。
「よりよいにほん」でも いまよりゎ マシだから、あいこくてきひはんぉ とーしてでもいーから にほんぉかえたい——そーゆー いけんも あるでしょう。わたしゎ それぉ ぜんひてーするつもりゎ ありません。こべつぐたいてきな たんきてきもくひょーのためであれば、わたしも そのよーな(おーわくぉ いじしたまま 「よりマシな○○」ぉもとめる)たちばぉ とることがあります。また、そのよーな かつどーぉ されているひとたちぉ そんけーしてもいます。
いっぽーで、たんきてきもくひょーにゎ つねに ゆーせんじゅんいが つけられます。だれのことも とりこぼさない、おいてきぼりにしないよーな たんきてきもくひょーとゆーのゎ、ほとんど ありません。たんきてきもくひょーぉ せってーした しゅんかんに、わたしたちゎ たいてー だれかぉ はいじょしています。そんな じぶんの ゆーせんじゅんいぉ せーとーかするのでゎなく、じぶんの けつだんに せきにんぉ もつことが ひつよーであると わたしゎ かんがえています。
あいこくしゃと みなされ ざいとくしゃかいに まもられる とっけんぉ てばなし、「わたしゎ はんにちです」と ほーふくぉ おそれず いえる とっけんぉ こーしする わたしにゎ、そのけつだんに ともなって せきにんが しょーじます。ぐたいてきにゎ、はんにちてきひはんよりも ざいとくしゃかいに うけいれられやすい あいこくてきひはんぉ しないことによって、げんざい もりあがっている はんレイシズムうんどーと それによる たんきてきもくひょーの たっせーに きよしないことぉ せんたくしていること、そして それゆえに、いま まさに おきている きょくしょてきな さべつかがいぉ とめるための こーどーが にちじょーせーかつじょーのものに げんてー
されていることに、せきにんが しょーじています。
いっぽーで、あいこくしゃと みなされ ざいとくしゃかいに まもられる とっけんぉ えらび、「わたしゎ はんにちです」と ほーふくぉ おそれず いえる とっけんぉ こーししない うんどーぉする 「にほんじん」とゆー にほんの せーきメンバーたちも、そのけつだんに ともなって せきにんが しょーじます。ぐたいてきにゎ、あいこくしゃ/ひあいこくしゃ、ひはんにち/はんにち、ひーては せーきメンバー/ひせーきメンバーとゆー、わたしたちの ぶんだんせんぉ いじ・きょーかし、はいじょぉ ともなう うんどーけーたーぉ せんたくしていることに せきにんが しょーじています。また、はんにちでゎない あいこくしゃの たちばぉ いじするために、しんりゃくせんそ
ー、しょくみんちしはい、せんごの がいこーたいせー、こーどけーざいせーちょーに ともなう たこくぇの けーざいてきさくしゅなどの 「にほん」の なの もとに れんめんと おこなわれてきた かがいこーいぉ、げんだいの みんぞくさべつ・じんしゅさべつから きりはなし、うんどーの しゃてーに ふくめない(あるいゎ ふくめない ばあいに その せーとーせーぉ とーぜんしする)ことで よーにんしていることにも、せきにんが しょーじています。
だれしも しゃかいうんどーに かかわるひとゎ、こーして みずからの けつだんに ともなう せきにんぉ せおっています。けつだんぉ しないことにも、けつだんしないとゆー けつだんに ともなう せきにんが しょーじていると いえるでしょう。それぞれの けつだんにゎ ここじんの つよい おもいがあり、そのけつだんじたいゎ そんちょーされるべきであると おもいます。そのうえで、かくじ ゆずれないところぉ まもりつつ、どー せきにんぉ とるのかが じゅーよーになります。
こんかいの 「(つーしょー)はんにちデモ」に さんかしたり、さんどーしたりするひとにも、そーすることによる せきにんが しょーじています。そのせきにんぉ どー はたすのか、ゆずれないぶぶんぉ ゆずらないぶん、ほかの どーゆーところで そのつぐないぉ するのか、とゆーことぉ、わたしぉ ふくめ、このデモに さんかしたり さんどーする 「にほんじん」とされる にほんの せーきメンバーが、けーぞくして かんがえ、こーどーに うつしていけたらと おもいます。
(このメッセージにおいて、わたしゎ 「にほんじん」とゆー にほんの せーきメンバーの せきにんについてのみ げんきゅーしており、そのてんで、「にほんじん」ちゅーしんしゅぎてきな そくめんぉ まぬがれません。わたしじしんが 「にほんじん」としての たちばから かたれることぉ かんがえた けっか このよーな メッセージとなったわけですが、 みんぞくさべつや じんしゅさべつについて はなすときですら 「にほんじん」が しゅたいとなるとゆーことゎ ほんらい まちがっていると おもいます。みずからの たちばから みんぞくさべつ・じんしゅさべつについて かたること、かたれることゎ なにか、けーぞくして かんがえるひつよーがあると つーかんしています
。)

マサキチトセ