北守さんからのメッセージ

****かんじ、つかってます****

(通称)反日デモメッセージ

反日」であると宣言することのむずかしさを感じています。マサキチトセさんも言うように、「反日」であることを(市民運動でさえ!)許さない社会にあるなかで、わたしは「反日」ですと宣言した瞬間、わたしはこの日本社会における「特権」を行使したことになるのです。これは「反日」のパラドックスです。とはいえ、すべての「特権」をすてて修行僧のような生活をする勇気も、わたしにはありません。どうしたものか。しかしそうやってうんうん唸っている間に、世の中はどんどん移り変わっています。「反排外主義」「反レイシズム」「反ヘイトスピーチ」などの言葉が次々と、差別や排外主義に蓋をすることで日本の国民ナショナリズムに奉仕する装置と化していきました。「慰安婦」問題を否認しても反レイシスト、朝鮮制裁に賛成しても反排外主義者、ヘイトスピーチでもって他者を攻撃しても「反ヘイトスピーチ」運動の中心人物たりえます。もう「反日」くらいしか言うことがない!
なぜ「反日」と言わなければいけないのかについては、デモの主旨文に対して、わたしが付け加えて述べる必要はないでしょう。日本社会は昔からずっと「在特会」でした。最近、橋下大阪市長が「ヘイトスピーチを認めない」と宣言したといいます。橋下市長はこれまでずっと朝鮮学校を抑圧してたし、「慰安婦」発言についても居直ってきました。「在特会君、君は少しやりすぎたね。朝鮮学校は僕が”合法的に”潰してあげるよ」ということでしょう。朝鮮制裁が国権の最高機関であるところの国会で、全会一致で(!)認められる国です。排外主義こそが国家のアイデンティティなのです。
 そこで、世間の風の冷たさというよりは自分の中にある後ろめたさから、おずおずと「反日」ですとつぶやいてみます。するとたちまちいろいろな人がお説教をしにやってきます。そうですこれがSNSの力です。かの人たちいわく、そんなことを言っていると「大衆」に理解されないというのです。「大衆」is誰?まあいいです。わたしもその「大衆」さんとやらに理解されないのは本意ではありません。どうすれば理解してもらえるでしょうか。かの人たちいわく、その解はリベラリズムだといいます。つまり、「反日」とは反転したウルトラ・ナショナリズム、あるいは過激な「朝鮮」ナショナリズムであり、在特会と同じくらい間違っているイデオロギーである。そうではなくて、自らのアイデンティティを主張「しすぎる」ことをやめて、他者に「寛容」になり、互いを尊重し合える関係を構築することこそ、この社会において「和解」をもたらすことができるというのです。仲良くしようぜ!意見の違いは腹を割って話し合おうぜ!誰がおってもええやん!隣に日の丸があってもええやん!え?日の丸を追い出すって?主催者の越権だ!セクト主義だ!
 わたしは感銘を受けます。とても立派な立場です。誠実で、懐が広く、行動力があり、頼りがいのある、力強く、たくましく、男らしい立場だと思います。ですが、こうも思うのです。わたしはやっぱり、誰がおってもよくはないです。1分1秒でも話したくない人がいます。もちろん、語りかけることをしなくても良いという立場だからこそ話したくない、で済むわけですが、そうだと分かっていても話したくない人はいます。運動の戦略についてはよく分かりません。運動の原則については少しは知っています。運動の原則では人は集まりませんが、運動の戦略で人が減っていくことは知っています。ハートの弱さにかけては定評があるので、運動が高揚していく中でひっそりとやめていく人が出てくるのが(そして何もできないのが)辛くて、外にあんまり出ていく気が起こりません。では自分で何かやるのか?いいえ。日々の生活の中、ほとんど何もできていません。朝は眠いし、昼は眠いし、夜は眠いのです。結局わたしは、おっかなびっくり、自分は「反日」ですと宣言することしかできないのかもしれません。

****かんじ、つかってません****

(つうしょう)はんにちデモ メッセージ

「はんにち」であると せんげん することの むずかしさを かんじています。 マサキチトセさんも いうように、 「はんにち」であることを (しみんうんどうでさえ!) ゆるさない しゃかいに あるなかで、 わたしは 「はんにち」ですと せんげんした しゅんかん、 わたしは この にほんしゃかいにおける 「とっけん」を こうししたことに なるのです。 これは 「はんにち」の パラドックスです。 とはいえ、 すべての 「とっけん」を すてて しゅぎょうそうのような せいかつを する ゆうきも、 わたしには ありません。 どうしたものか。 しかし そうやって うんうん うなっている あいだに、 よのなかは どんどん うつりかわっています。 「はんはいがいしゅぎ」「はんレイシズム」「はんヘイトスピーチ」などの ことばが つぎつぎと、 さべつや はいがいしゅぎに ふたを することで にほんの こくみんナショナリズムに ほうしする そうちと かしていきました。 「いあんふ」もんだいを ひにんしても はんレイシスト、 ちょうせんせいさいに さんせいしても はんはいがいしゅぎしゃ、 ヘイトスピーチでもって たしゃを こうげきしても 「はんヘイトスピーチ」うんどうの ちゅうしんじんぶつたりえます。 もう 「はんにち」くらいしか いうことがない!
なぜ 「はんにち」と いわなければ いけないのかについては、 デモの しゅしぶんにたいして、 わたしが つけくわえて のべる ひつようは ないでしょう。 にほんしゃかいは むかしから ずっと 「ざいとくかい」でした。 さいきん、 はしもとおおさかしちょうが 「ヘイトスピーチを みとめない」と せんげんしたと いいます。 はしもとしちょうは これまで ずっと ちょうせんがっこうを よくあつしてたし、 「いあんふ」はつげんについても いなおってきました。 「ざいとくかいくん、 きみは すこし やりすぎたね。 ちょうせんがっこうは ぼくが ”ごうほうてきに” つぶして あげるよ」と いうことでしょう。 ちょうせんせいさいが こっけんの さいこうきかんである ところの こっかいで、 ぜんかいいっちで(!) みとめられる くにです。 はいがいしゅぎこそが こっかの アイデンティティなのです。
 そこで、 せけんの かぜの つめたさと いうよりは じぶんの なかにある うしろめたさから、 おずおずと 「はんにち」ですと つぶやいてみます。 すると たちまち いろいろな ひとが おせっきょうを しにやってきます。 そうです これが SNSの ちからです。 かのひとたち いわく、 そんなことを いっていると 「たいしゅう」に りかいされないと いうのです。 「たいしょう」 is だれ? まあ いいです。 わたしも その 「たいしゅう」さん とやらに りかい されないのは ほんいでは ありません。 どうすれば りかいして もらえるでしょうか。 かのひとたち いわく、 そのかいは リベラリズムだと いいます。 つまり、 「はんにち」とは はんてんした ウルトラ・ナショナリズム、 あるいは かげきな 「ちょうせん」ナショナリズムであり、 ざいとくかいと おなじくらい まちがっている イデオロギーである。 そうではなくて、 みずからの アイデンティティを しゅちょう 「しすぎる」ことを やめて、 たしゃに 「かんよう」になり、 たがいを そんちょうしあえる かんけいを こうちくすることこそ、 この しゃかいにおいて 「わかい」を もたらすことができると いうのです。 なかよくしようぜ! いけんの ちがいは はらをわって はなしあおうぜ! だれが おってもええやん! となりに ひのまるが あってもええやん! え? ひのまるを おいだすって? しゅさいしゃの えっけんだ! セクトしゅぎだ!
 わたしは かんめいを うけます。 とても りっぱな たちばです。 せいじつで、 ふところが ひろく、 こうどうりょくがあり、 たよりがいのある、 ちからづよく、 たくましく、 おとこらしい たちばだと おもいます。 ですが、 こうも おもうのです。 わたしは やっぱり、 だれが おっても よくはないです。 1ぷん 1びょうでも はなしたくない ひとが います。 もちろん、 かたりかけることを しなくても いいという たちばだからこそ はなしたくない、で すむわけですが、 そうだと わかっていても はなしたくない ひとは います。 うんどうの せんりゃくについては よく わかりません。 うんどうの げんそくについては すこしは しっています。 うんどうの げんそくでは ひとは あつまりませんが、 うんどうの せんりゃくで ひとが へっていくことは しっています。 ハートの よわさに かけては ていひょうが あるので、 うんどうが こうようしていくなかで ひっそりと やめていく ひとが でてくるのが (そして なにも できないのが) つらくて、 そとに あんまり でていくきが おこりません。 では じぶんで なにか やるのか? いいえ。 ひびの せいかつのなか、 ほとんど なにも できていません。 あさは ねむいし、 ひるは ねむいし、 よるは ねむいのです。 けっきょく わたしは、 おっかな びっくり、 じぶんは 「はんにち」ですと せんげんすることしか できないのかも しれません。