芦原省一(@BeneVerba)さんからのメッセージ

芦原省一(@BeneVerba)さんからのメッセージです。2つめは かんじ つかってません。

****かんじ、つかってます****

私は、反原発運動をやりながら、朝鮮半島にルーツがある者として、ずっとその国民主義的な傾向に抗ってきました。今も、その闘いは反原発運動において、そしてまた大月書店との争議において、継続中です。そして、その中で、民族としての尊厳を傷付けられ続けています。

 社会運動の反動化、国民運動化は今もなお、そこにある問題です。日の丸の持ち込みや右翼との共闘は、未だに行われております。右からの反原発を肯定したり、日の丸の持ち込みを許容したりするデモは、特定の人がアクセスできないという意味で、文字通り差別デモなのです。在特会のみが差別デモなのではありません。

 便宜上、これを第一の不正義と呼びましょう。

 だが、その後「カウンター」や「仲良くしようぜ」や「東京大行進」といった形で、「反差別運動」が起こされます。ところが、それでどうなったかいうと、反原発運動における日の丸の持ち込みや、歴史修正主義朝鮮人差別を行ってきた者すら、こうした動きに乗っかって恥じないという事態となりました。これが第二の不正義です。

 この第二の不正義は、差別の二次加害であるとともに、告発の無力化です。野間易通のような、数々の差別発言をなしてきた人物を思い浮かべればいいでしょう。彼が、「反差別の旗手」とみなされることは、彼から直接差別発言を受けた被害者(私もその一人です)にとってみれば、告発をより困難にするだけでなく、それそのものがさらに傷付けられることです。また、仲良くしようぜパレードの運営者の凡さんも、私にひどい差別発言をしています。

 そのような状況において行われる、「仲良くしようぜパレード」とは何でしょうか?私には、第一に、それは国民運動化においてなされた数々の、差別と不正義を糊塗するためのものに思われます。

 ごく当たり前の話をしましょう。ある差別を働いた人物が、反差別運動を起こしたからって、かれの差別は免責されるでしょうか?とんでもない!かれらは先ず、自分が差別発言を行った人物に謝罪するべきなのです。

 あるいは、片方で国民主義的な(つまり、差別的な)デモは起きる一方で、もう一方では、エスニシティを表に出していいようなパレードが起きることで、一件落着と言えるでしょうか?いいえ、前者の不正義は解消されていません。

 第二には、それは、在日朝鮮人を歴史的文脈から切り離し、無害化するものだということです。日本に在住する旧植民地出身者とその子孫は、言うまでもなく、日本の植民地支配の結果として居住しているのです。「仲良くしようぜ」という脱政治的、脱歴史的なスローガンは、それを切断してしまいます。

 私はそれを歴史的な犯罪だと考えています。

 それに対して、「仲良くするかどうかの問題じゃない。差別をやめろ。植民地支配の責任を果たせ。特権にある者の責任を果たせ」と言っていくことが重要ではないでしょうか。

****かんじ、つかってません****

わたしは、 はんげんぱつうんどうを やりながら、 ちょうせんがんとうに ルーツが あるものとして、 ずっと その こくみんしゅぎてきな けいこうに あらがって きました。 いまも、 その たたかいは はんげんぱつうんどうにおいて、 そして また おおつきしょてんとの そうぎにおいて、 けいぞくちゅうです。 そして、 そのなかで、 みんぞくとしての そんげんを きずつけられ つづけています。

 しゃかいうんどうの はんどうか、 こくみんうんどうかは いまもなお、 そこにある もんだいです。 ひのまるの もちこみや うよくとの きょうとうは、 いまだに おこなわれて おります。 みぎからの はんげんぱつを こうていしたり、 ひのまるの もちこみを きょよう したりする デモは、 とくていの ひとが アクセスできないという いみで、 もじどおり さべつデモ なのです。 ざいとくかいのみが さべつデモなのでは ありません。

 べんぎじょう、 これを だいいちの ふせいぎと よびましょう。

 だが、 そのご 「カウンター」や 「なかよくしようぜ」や 「とうきょうだいこうしん」といった かたちで、 「はんさべつうんどう」が おこされます。 ところが、 それで どうなったかいうと、 はんげんぱつうんどうにおける ひのまるの もちこみや、 れきししゅうせいしゅぎ、 ちょうせんじんさべつを おこなってきた ものすら、 こうした うごきに のっかって はじないという じたいとなりました。 これが だいにの ふせいぎです。

 この だいにの ふせいぎは、 さべつの にじかがいである とともに、 こくはつの むりょくかです。 のまやすみちのような、 かずかずの さべつはつげんを なしてきた じんぶつを おもいうかべれば いいでしょう。 かれが、 「はんさべつの きしゅ」と みなされることは、 かれから ちょくせつ さべつはつげんを うけた ひがいしゃ (わたしも そのひとりです)に とってみれば、 こくはつを より こんなんに するだけでなく、 それ そのものが さらに きずつけられる ことです。 また、 なかよくしようぜパレードの うんえいしゃの ぼんさんも、 わたしに ひどい さべつはつげんを しています。 

 そのような じょうきょうに おいて おこなわれる、 「なかよくしようぜパレード」とは なんでしょうか? わたしには、 だいいちに、 それは こくみんうんどうかにおいて なされた かずかずの、 さべつと ふせいぎを ことするための ものに おもわれます。

 ごく あたりまえの はなしを しましょう。 ある さべつを はたらいた じんぶつが、 はんさべつうんどうを おこしたからって、 かれの さべつは めんせき されるでしょうか? とんでもない! かれらは まず、 じぶんが さべつはつげんを おこなった じんぶつに しゃざいするべき なのです。

 あるいは、 かたほうで こくみんしゅぎてきな (つまり、 さべつてきな) デモが おきる いっぽうで、 もう いっぽうでは、 エスニシティを おもてに だして いいような パレードが おきることで、 いっけんらくちゃくと いえるでしょうか? いいえ、 ぜんしゃの ふせいぎは かいしょう されていません。

 だいにには、 それは、 ざいにちちょうせんじんを れきしてきぶんみゃくから きりはなし、 むがいか するものだと いうことです。 にほんに ざいじゅうする きゅうしょくみんちしゅっしんしゃと その しそんは、 いうまでもなく、 にほんの しょくみんちしはいの けっかとして きょじゅうして いるのです。 「なかよくしようぜ」という だつせいじてき、 だつれきしてきな スローガンは、 それを せつだんしてしまいます。

 わたしは それを れきしてきな はんざいだと かんがえています。

 それにたいして、 「なかよく するかどうかの もんだいじゃない。 さべつを やめろ。 しょくみんちしはいの せきにんを はたせ。 とっけんにあるものの せきにんを はたせ」と いっていくことが じゅうようでは ないでしょうか。