しゅしぶん:「じゆうと じんけんは『こくみん』の せんゆうぶつ ではないと かんがえる ひとびとによる せんそうほうあん はんたいデモ (つうしょう)はんにちデモ」)

かんじ つかってる バージョン

しゅしぶん(みじかいほう)

 げんざい、あべ せいけんが しゅうだんてき じえいけん ようにんに むけた ほうせいかを くわだてています。いっぽう、これに たいこうする うんどうに ついても、こくみん しゅぎてきな せいかくを つよめ、ぜんたいとして しゃかい うんどう じたいの うけいかが すすんで いるように みえます。

「こくみん」を れんこし、こくみん しゅぎに とらわれた しゃかい うんどうは、にほんの せんそう せいさく・ていこく しゅぎに たいこうできる でしょうか。「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」といった いま ひろく きかれる すろーがんは、にほんの 「こくみん」を もっぱら せんそうに“まきこまれる がわ”と いちづける ものです。そこに、にほんこそが ちょうせん・ちゅうごく はじめ あじあ しょこく しょちいきを せんかに まきこみ しんりゃく してきた がわで あったという れきしてき じじつ、げんざいも にほんこそが あじあの きょうい としてあり、また ぐんたいを がいこくに おくって しんりゃくを おこないつつ あるのだという げんじつは、かんぜんに ぬけおちています。

 せんそう ほうあんを はいあんに おいこみ、あべ せいけんの くわだてる「りっけん しゅぎの はかい」を とめること。しかし、あべを せいけんから ひきずりおろし、その くわだてから「こくみん」を 「まも」った あとに、はたして どのような みらいが まっているのでしょうか。りっけん しゅぎは 1950ねんに じえいたいの ぜんしんである けいさつ よびたいが そうせつ されたときに すでに はかいされて います。このときに ちょうせん せんそうに さんかして いらい、にほんは すでに かずかずの せんそうに かたんして きました。これら「せんご」の せんそうへの さんか・かたんは、にほんが げんざいにいたるまで「せんぜん」の せんそう せきにん・しょくみんち しはい せきにんから とうひ しつづけてきた ことと わかちがたく つながっています。このまま あべが しゅしょうの ざ から さったとしても、そのあとに のこるのは、「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」という、しんりゃく せんそうを せいとうかし どういんを よびかける すろーがんと くべつ するのが むずかしい ような かけごえと、こべつてき じえいけんの こうしや にちべい あんぽ じょうやくは「ごうけん」である といった ほしゅはの しゅちょうに はんせん・へいわ うんどうが ますます とりこまれ こうたいしていく という じたい だけでは ないのでしょうか。

 せんそう ほうあんに ともに はんたい しましょう。どうじに、ひはんの しょうてんを あべ せいけんに きりつめるのでなく、あべ いぜんから つづく にほんの せんそう せいさく・ていこく しゅぎ・はいがい しゅぎ そのものに はんたい しましょう。じえいたいに、にちべい あんぽ じょうやくに、おきなわへの べいぐん きちの おしつけに、ちょうせんへの てきし せいさく・せいさいに、ちょうせん がっこうにたいする こうこう むしょうか せいさく からの はいじょに、ひのまると きみがよに、てんのうせいに「のー」を つきつけましょう。

しゅしぶん(ながいほう)

1.あべ せいけんの せんそう ほうあんと「はんせん」うんどうの うけいか

 あべ せいけんに よって、じえいたいの ぐんじ とうどうを ますます よういに する せんそう ほうせいの せいびが すすめられて います。さくねん 7がつに しゅうだんてき じえいけん こうしを ようにんする かくぎ けっていが なされたのに つづき、げんざい、せいふ・よとうは「あんぜん ほしょう かんれん ほうあん」と しょうする せんそう ほうあんを こっかいで せいりつ させようと しています。

 わたしたちは、あべ せいけんの こうした さっこんの うごきに はんたいすると ともに、あべ せいけんより ずっと いぜんから にほん せいふに よって すすめられて きた せんそう せいさく・しんりゃく せいさくをも どうじに とう でもを きかく しました。

 あべ せいけんの せんそう ほうあんに たいしては、いま、さまざまな たちばの ひとびとが それぞれの やりかたで はんたい うんどうに とりくんで います。しかし、たかまり こうはんかする「はんせん」うんどう そのものが、うけいかと せんそうの よういな くにづくりを ますます すすめる よういん・はぐるまに なりつつ あるのでは ないかと、わたしたちは きぐして います。


2.きょぎの「せんご」し――うけいかの ちょうこう(1)

 わたしたちが そう かんがえる りゆうの ひとつは、せんそう ほうあん はんたいの うんどうに おいてすら、おおくの ひとが にほんの「せんご」しに ついて きょぎを かたっている てんです。いわく、「せんご70ねんかん、にほんは せんそうに さんかする ことなく、けんぽう9じょうの もと へいわ こっかと して あゆんできた」と。じっさいには、「せんご」も にほんは、けんぽうの きんじた さいぐんびを おこない、にちべい あんぽ じょうやくの もと たこくへの ぶりょくによる いかくを つづけ、また ちょうせん せんそう、べとなむ せんそう、わんがん せんそう、いらく せんそう とうに かたんして きました。さきの せんごしの かたりは、にほんに よる「せんご」の かがいの れきしを まるで「なかったこと」にする あくしつな きょぎと いうべきです。

 こうした きょぎの せんごしは、けっして すくなくない かずの、だいがく きょうしなどを ふくむ ちしきじん、また へいわ うんどうの かつどうからに よって こんにち かたられており、これが たんなる「むち」の もんだいで ないことは あきらかです。これらの ひとびとが、うそを せっきょくてきに かたったり、あるいは うそを あえて ひていせずに ようにんしたり しているのには、あべ せいけんを「せんご」しに おける“いつだつ”あるいは“れいがい”として せつだんする ことで、これに はんたいする こうはんな れんたいを よういに しようという いとが あるのでしょう。にほんは「へいわ こっか」として あゆんで きたのに、あべが それを こわそうと している、だとう あべ せいけんで まとまろう、というわけです。こうして、じえいたい・かいじょう ほあんちょう といった ぐんじ そしきの そんざいと かつどう、にちべい あんぽ、おきなわへの べいぐん きちの おしつけといった もんだいが たなあげに された けっか、ほしゅはや 9じょう かいけん ろんしゃも いっしょに「はん あべ せいけん」「せんそう ほうあん はんたい」「しゅうだんてき じえいけん ようにん はんたい」といった きょうつうの はたじるしの もとに「れんたい」することが かのうに なります。

 しかし、ここで おきて いるのは、はんせん うんどうの なかでの たいこうじくの こうたいという じたいです。あべ せいけんと これの すすめる しゅうだんてき じえいけん ようにんに むけての ほうせいかと いったところに そうてんが きりつめられる ことに よって、にほんが はいせんごも いっかんして すすめてきた せんそう せいさくを、けっかてきに はんせん うんどう みずからが ようにん してしまう、という じたいが しょうじて いるのです。そして、この はんせん うんどうの じはつてき こうたい ともいうべき じたいは、げんざいが いわば「ひじょう じたい」である という りくつに よって せいとうか されて いるようです。せんそう せいさくを すいこうする せいふと これに たいこう するはずの うんどうの そうほうが、らでぃかる(こんぽんてき)な ひはん・いぎ もうしたてを「さまつな もんだいへの こだわり」として わいしょうかして きりすてる「ひじょう じたい」の しこうに とらわれつつ あるのです。


3.こくみん うんどうか する「はんせん」うんどう――うけいかの ちょうこう(2)

「はんせん」うんどう そのものが、にほんの うけいかを くどうする えんじんの いちぶに なりつつ あるのではないかという ちょうこうは、うんどうの こくみん うんどうかとしても あらわれて います。「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」といった こーるが でもで なされ、あぴーるや ぎろんに おいて「こくみん」という ごが たよう されています。

 いうまでもなく「こくみん」は はいじょを ともなう ことばです。「こくみん」を たばね、その たばねられた ちからを はいけいに つかおうとする せいじは、はいじょ たいしょうと しての「ひこくみん」を つくりだし、はいじょの きょうかいせん じょうに おかれたものに どうかを せまります。「ひこくみん」と なざされたく なければ きょうじゅんを しめせ、と。

 はいせんごの にほんに おける「こくみん」という ことばの れきしてき ぶんみゃくも みすごせない もんだいを はらんで います。にほんこく けんぽう せいていの かていで、GHQ(じー・えいち・きゅー)の そうあんには ふくまれていた「people(ぴーぷる)」(じんみん)の ごが いとてきに「こくみん」と ほんやく されました。これにより、ばんにんが にほんこくに たいし しゅちょうしうるべき きほんてき じんけん、また にほんこくが とうちを およぼそうとする ぜんじんみんが しゅちょう しうるべき しゅけんしゃとしての ちいは、ときの いせいしゃや たすうしゃの かいしゃくする「こくみん」からの はいじょを まぬがれた、いちぶの ものの とっけんとして げんていを うける ことに なったのです。そのうえで、けんぽう しこう ぜんじつの 1947ねん5がつ2にち、てんのう ひろひとは きゅう しょくみんちである たいわん・ちょうせん しゅっしんしゃを「がいこくじんと みなす」とした ちょくれい「がいこくじん とうろくれい」を はっし、けんぽうの「こくみん」の はんいから これらの ひとびとを じょがいしました。そのうえで、1952ねん、にほんこく せいふは さんふらんしすこ こうわ じょうやく はっこうに ともない、きゅう しょくみんち しゅっしんしゃの こくせきを つうたつ ひとつで いっぽうてきに はくだつして「がいこくじん」として かんりかに おき、げんざいに いたります。

「こくみん」という ことばは、その ときどきの いせいしゃ・たすうしゃが おもうままに その はんいを さだめ、その きょうかいじょう・きょうかいがいに おいた しょうすうしゃを せんせいてきに とうちする どうぐとして あったし、その れきしてきな ぶんみゃくは かいじょされないまま いまも いきています。


4.にほんに よる しんりゃく せんそうに たいこうする ために

 この「こくみん」の ごほうに のっとって、にほん せいふは あべ せいけん いぜんから せんそう せいさくを つづけてきた てんは じゅうようです。にほん せいふは、ちょうせん みんしゅ しゅぎ じんみん きょうわこく(ちょうせん)や ちゅうごくの「きょうい」を けんでんし、これを じじつじょうの かそうてきとして すえることで、ぐんびの かくだい・さいへん、また おきなわに とりわけ しゅうちゅう している べいぐんの ちゅうりゅうを せいとうか してきました。このうち、ちょうせんの「きょうい」は、ちょうせん そうれんへの ふとう そうさくや みんぞく きょういくへの かいにゅうを くりかえし、ざいにち ちょうせんじんと その みんぞく だんたいに たいする ふの いんしょうづけを おこなうことを つうじて えんしゅつされて きました。こうして「こくみん」の がいぶ ないし きょうかいじょうの そんざいとして ざいにち ちょうせんじんを いろづける(まーくする)いんしょう そうさが、せんそう せいさくの いっかんとして おこなわれて きたのです。

「せんご」に おける このような れきしてき げんざいてき ぶんみゃくに まったくの むとんちゃくに なるので なければ、にほんの せんそう せいさくに たいこう しようと するときに「こくみん」の ごを れんこする などということは できないはずです。はいせんごも なお せんそうに さんか・かたん してきたという かがいの じじつを つごうよく しょうきょする、さきに のべた「せんご」しの かいざんが、「こくみん」れんこの「はんせん」うんどうを ささえて いるのです。ちしきじんや へいわ うんどう かつどうからに よって すすめられている、にほん こくみんを もっぱら せんそうに“まきこまれ”うる がわに いちづけようと する れきしの ねつぞう、これと うんどうに おける「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」の しょうわは、れんぞくした いったいの ものと みるべきです。

「こくみん」とは だれか?その かてごりーは だれを ふくみ、だれを ふくまないのか?また、「こくみん」を おびやかす「はんにち」や「ひこくみん」は だれなのか?これらを きてい するのは、つねに いせいしゃであり、せいどであり、また たすうしゃ えした。そこには つねに ひたいしょうな けんりょく かんけいが あったのであり、しょうすうしゃは もっぱら きていされる がわで あるよりほか なかったのです。こうした せいじ・せいど・けんりょく かんけいが おんぞんされた げんじょうに おいて、「こくみん」れんこを つうじて れんたい・けっそくを はかるような うんどうが、せいふの せんそう せいさくに たいこうしうる ものに なるとは とうてい かんがえられません。

「こくみん」の ごを つかうことに いぜんは それなりに しんちょうで あったはずの ひとまでもが、こんにち「こくみん なめんな」「こくみん まもれ」の しょうわに くわわっています。はん あべの いってんで ひろく きょうとう するために、“あえて”あるいは“せんりゃくてきに”そうして いるのでしょうか。しかし、そのように たいせいに おもねって ことばを あやつろうと するものは、いずれ たいせいに のみこまれる ことに なるでしょう。「こくみん」れんこに いま“あえて”のっている ものたちは、“せんりゃくてきに”そうしている つもりでも、すでに「ひじょう じたい」の しこうに みずから のっかっています。かれらは、いせいしゃに よって「ゆうじ」「きんきゅう じたい」が えんしゅつ され、「こくみん」の「きき」が ますます あおられる なかで、たすうしゃが「てき」として ゆびさす「はんにち」「ひこくみん」への こうげきに そろって かたんする ことに なるでしょう。たばねられた「こくみん」の ちからに じょうじる せんたくを したものは、そのような せいじに あらがう ための げんそくを すでに みずから てばなして しまっているのですから。

 だから、わたしたちが なすべきことは、にほんの せんそう せいさくを こんぽんてきに ひはんする げんそくを あらためて こうちく しなおす ことです。そのためには、「せんご70ねんかん、へいわ こっかとして あゆんできた にほん」などという でたらめを となえるのを やめなければ なりません。あべの すすめる せんそう せいさくに はんたいすると どうじに、にほんの「せんぜん」「せんご」を とおしての れきしてきな かがい じじつ、こんごの かがい かのうせいを しゃていに いれた ひはんと こうぎの れんたいを つくりだして いくことが ひつようだと かんがえます。その れんたいは、にほんの こくみん しゅぎを ひはんし、あるいは こくふく して いこうと するもので なければ ならないはずです。

 せんそう ほうあんに ともに はんたいしましょう。また、じえいたいに、にちべい あんぽ じょうやくに、おきなわへの べいぐん きちの おしつけに、ちょうせんへの てきし せいさく・せいさいに、ちょうせん がっこうに たいする こうこう むしょうか せいさく からの はいじょに、ひのまると きみがよに、てんのうせいに「のー」を つきつけましょう。

(じゆうと じんけんは「こくみん」の せんゆうぶつ ではないと かんがえる ひとびと)