こぐま( @qua_gma )さんからのメッセージ

こぐま(@qua_gma)さんからのメッセージです。2つめは、かんじつかってません。

****かんじ、つかってます****

「仲良く」「友好」を掲げて行われる反レイシズムの行動に反対する(通称)反日デモの趣旨に賛同します。
「仲良く」「友好」といったフレーズを前面に掲げて説かれる反レイシズムは、人のセンチメントに訴える力があり、多数の人を集める訴求力を持ったものかもしれません*1
一方、「反日」というフレーズはといえば、この社会のマジョリティたる多くの日本人を鼻白ませるものでしょうし、おそらくは「仲良くしようぜ」パレードに比べてずっと少数の人しか集まらないでしょう。
しかし、そのような状況そのものが反「仲良く」「友好」という立場の意義を証し立てるものではないでしょうか。
「仲良く」「友好」というフレーズは確かにとても甘美です。しかしそれは同時にこれまで継続し、現在においても存在する対立や葛藤を見えなくし、かつ、それを訴える叫びを押し潰すような方向へも作用しうる危険な言葉です。
それだけではなく、「仲良く」「友好」は「仲良く」できない存在をくくり出してしまう面があり、しばしば敵対者の存在を前提してすらいます。例えば直近において、このブログの最初の記事に「象徴的な例」として挙げられた〈「NO!RACISM!日韓友好ソウルパレード」の開催について〉と題された文章があります。ここに論じられているように、これは「仲良く」を表面に押し立てつつ、裏面において「反(北)朝鮮」の論理を隠し持ったものでした。
〈誰も追い出されることのない世界を作る〉という夢は留保なしに美しいものだと思います。しかし、「仲良くしようぜ」なるフレーズは、必ずしもその美しい夢に結びつくものではなく、ときにそれに反しすらするものではないでしょうか。
そもそも、差別に反対することと「仲良くすること」は同義ではありません。それどころか、強者が弱者を押しひしぎつつ「仲良くしている」と称する図など、我々は見飽きるほど見てきたではありませんか。例えば歴史上の満州国における「五族協和」が何を隠蔽するものだったかを想起すべきです。
こうして見ると、「仲良く」「友好」を掲げて唱えられる反レイシズムには危ういものがあると言わざるを得ません。私はそれには賛同できません。「仲良く」「友好」に反対し、本質的に在特会的な日本のあり方そのものに反対する(通称)反日デモに賛意を表明します。

****かんじ、つかってません****

「なかよく」「ゆうこう」を かかげて おこなわれる はんレイシズムの こうどうに はんたいする (つうしょうはんにちデモの しゅしに さんどうします。
「なかよく」「ゆうこう」といった フレーズを ぜんめんに かかげて とかれる はんレイシズムは、 ひとの センチメントに うったえる ちからがあり、 たすうの ひとを あつめる そきゅうりょくを もったものかも しれません*2
いっぽう、 「はんにち」という フレーズはといえば、 この しゃかいの マジョリティたる おおくの にほんじんを はなじろませる ものでしょうし、 おそらくは 「なかよくしようぜ」パレードに くらべて ずっと しょうすうの ひとしか あつまらないでしょう。
しかし、 そのような じょうきょう そのものが はん「なかよく」「ゆうこう」という たちばの いぎを あかしたてるものでは ないでしょうか。
「なかよく」「ゆうこう」という フレーズは たしかに とても かんびです。 しかし それは どうじに これまで けいぞくし、 げんざいにおいても そんざいする たいりつや かっとうを みえなくし、 かつ、 それを うったえる さけびを おしつぶすような ほうこうへも さようしうる きけんな ことばです。
それだけではなく、 「なかよく」「ゆうこう」は 「なかよく」できない そんざいを くくりだしてしまう めんがあり、 しばしば てきたいしゃの そんざいを ぜんていしてすらいます。 たとえば ちょっきんにおいて、 この ブログの さいしょの きじに 「しょうちょうてきな れい」として あげられた 〈「ノー!レイシズム!にっかんゆうこう ソウルパレード」の かいさいについて〉と だいされた ぶんしょうが あります。 ここに ろんじられて いるように、 これは 「なかよく」を ひょうめんに おしたてつつ、 うらめんにおいて 「はん(きた)ちょうせん」の ろんりを かくしもった ものでした。
〈だれも おいだされることのない せかいを つくる〉という ゆめ(参照)は りゅうほなしに うつくしいものだと おもいます。 しかし、 「なかよくしようぜ」なる フレーズは、 かならずしも その うつくしい ゆめに むすびつくもの ではなく、 ときに それに はんしすらするものでは ないでしょうか。
そもそも、 さべつに はんたいすることと 「なかよくすること」は どうぎでは ありません。 それどころか、 きょうしゃが じゃくしゃを おしひしぎつつ 「なかよくしている」と しょうする ずなど、 われわれは みあきるほど みてきたでは ありませんか。 たとえば れきしじょうの まんしゅうにおける 「ごぞくきょうわ」が なにを いんぺいするものだったかを そうきすべきです。
こうしてみると、 「なかよく」「ゆうこう」を かかげて となえられる はんレイシズムには あやういものがあると いわざるを えません。 わたしは それには さんどうできません。 「なかよく」「ゆうこう」に はんたいし、 ほんしつてきに ざいとくかいてきな にほんの ありかた そのものに はんたいする (つうしょう)はんにちデモに さんいを ひょうめいします。