上間愛さんからのメッセージ

 上間愛さんからのメッセージです。2つめは、かんじつかってません。
****かんじ、つかってます****

 「なかよくしようね」。この言葉をよく口にするのは、学校の先生という立場の人だろう。同じクラスの人同士でけんかしている時もそうだが、ある人が一方的に集団からバカにされ持ち物をトイレに流され泥を頭からぶっかけられたときですら、そう言っていた。「なかよくしようね」?できるわけがない。こちらがやめてほしいと頼んでもやめなかったのに。先生という「権力者」が「なかよくしようね」と促すことによって実現される「なかよし」って一体なんなんだ。
 学校で誰かがいじめに遭っているとき、「先生」という権力者は、「友だちどうしなかよく遊んでいると思った」と言って、いじめを否認する。家の中で家族から暴力を振るわれているとき、周囲も加害者も「なかがいい家族だから」と暴力の気配を消す。恋人からのレイプが「なかよくしていただけなんで」と正当化される。「なかよし」は、暴力の存在を見えにくくし、言いにくくし、闇に隠蔽する。
 「なかよし」は、関係性がうまくいっているときには飴のように甘くやさしく、しかし一旦考えの相違や生き方の違いが出てくると毒物のように鋭く蝕んでいく。「なかよし」は権力や利害関係がからんだ、条件付きの関係性である。 
 「なかよく」「なかよし」は、目の前にある問題から目を背け、とりあえず当たり障りなく生活することを要請する。目の前にある問題によってできる傷は、問題を伏せてしまうことでさらに広がる。二重の傷害が、「なかよくしようね」の本質である。
 「暴力はいけません」「差別はいけません」と形だけ唱えるのと、「なかよくしようね」は、似ている。
 暴力行為や差別的状況が「ない」ことをよしとするため、いざ暴力行為や差別的状況が出てくると、なかったことにする。「暴力」や「差別」「いじめ」「虐待」の定義を狭め、目の前の問題を無化しようとする。そして、問題をなかったことにさせまいと立ち上がる人を逆に、「攻撃してくる人」として、加害者に仕立て上げる。
 つまりは、「なかよくしようね」は、自分が問題に取り組みたくないがために、相手に手っ取り早く問題の解消(=なかよくなること)を求める、権力を持つ傍観者の怠慢の言葉なのだ。それは、二次加害であり、加害者の肩を持つことですらあると、私は思う。
 差別に抗うこと、暴力を拒否すること。それは、自分が立場や行動を自問自答し、暴力的手段に頼らずに問題を解決していこうとする、地道で血の滲むような、延々と続く作業である。誤解を恐れずに言えば、暴力をなくすことに心血を注ぐことでは決してない。なくすだけでいいなら、なかったことにしてしまえば終わりだからである。
 反差別・非暴力とは、暴力や差別が起きたときでもそれをなかったことにせず、暴力による傷をこれ以上深くしないように、ケアしていくために動くことである。どんな人の傷もないがしろにしない、という状況を作り出していくことである。そのような地道な作業を通してこそ、差別や暴力による傷の痛みが減っていくのだと思う。
 そして、「反日」とは、日本に住む自分たち自身を振り返り、問題を直視し、傷を受け声をあげた人と一緒に解決策を考えていく、反差別・非暴力の作業なのだと思う。
 「なかよくしようね」がもつ無責任さや怠慢や卑怯さ姑息さとは、あきらかに一線を画す。
 差別や暴力に「NO」と言うとき、「なかよくしようね」と言う先生は、要らない。肩を並べて耳を傾け、一緒に考える、そういう人こそが必要だ。だからこそ、自戒を込めて、「反日」。

****かんじ、つかってません****

 「なかよくしようね」。この ことばを よく くちに するのは、がっこうの せんせいと いう たちばの ひと だろう。おなじ くらすの ひと どうしで けんかして いる ときも そうだが、ある ひとが いっぽうてきに しゅうだんから ばかに され もちものを といれに ながされ どろを あたまから ぶっかけられた とき ですら、そう いっていた。「なかよくしようね」?できる わけが ない。こちらが やめて ほしいと たのんでも やめなかった のに。せんせいと いう 「けんりょくしゃ」が 「なかよくしようね」と うながす ことに よって じつげん される 「なかよし」って いったい なんなんだ。
 がっこうで だれかが いじめに あって いるとき、「せんせい」という けんりょくしゃは、「ともだち どうし なかよく あそんで いると おもった」と いって、いじめを ひにん する。いえの なかで かぞくから ぼうりょくを ふるわれて いる とき、しゅういも かがいしゃも 「なかが いい かぞく だから」と ぼうりょくの けはいを けす。こいびと からの れいぷが「なかよく して いた だけ なんで」と せいとうか される。「なかよし」は、ぼうりょくの そんざいを みえにくくし、いいにくくし、やみに いんぺい する。
 「なかよし」は、かんけいせいが うまく いっている ときには あめの ように あまく やさしく、しかし いったん かんがえの そういや いきかたの ちがいが でてくると どくぶつの ように するどく むしばんで いく。「なかよし」は けんりょくや りがい かんけいが からんだ、じょうけん つきの かんけいせい である。
 「なかよく」「なかよし」は、めの まえに ある もんだいから めを そむけ、とりあえず あたりさわり なく せいかつ する ことを ようせい する。めの まえに ある もんだいに よって できる きずは、もんだいを ふせて しまう ことで さらに ひろがる。にじゅうの しょうがいが、「なかよくしようね」の ほんしつで ある。
 「ぼうりょくは いけません」「さべつは いけません」と かたち だけ となえるのと、「なかよくしようね」は、にている。
 ぼうりょく こういや さべつてき じょうきょうが「ない」ことを よし とする ため、いざ ぼうりょく こういや さべつてき じょうきょうが でてくると、なかった ことに する。「ぼうりょく」や「さべつ」「いじめ」「ぎゃくたい」の ていぎを せばめ、めの まえの もんだいを むか しようと する。そして、もんだいを なかった ことに させまいと たちあがる ひとを ぎゃくに、「こうげき してくる ひと」として、かがいしゃに したて あげる。
 つまりは、「なかよくしようね」は、じぶんが もんだいに とりくみたく ないがために、あいてに てっとりばやく もんだいの かいしょう(=なかよくなること)を もとめる、けんりょくを もつ ぼうかんしゃの たいまんの ことば なのだ。それは、にじ かがい であり、かがいしゃの かたを もつこと ですら あると、わたしは おもう。
 さべつに あらがう こと、ぼうりょくを ひてい すること。それは、じぶんが たちばや こうどうを じもん じとうし、ぼうりょくてき しゅだんに たよらずに もんだいを かいけつ して いこうとする、じみちで ちの にじむような、えんえんと つづく さぎょうで ある。ごかいを おそれずに いえば、ぼうりょくを なくす ことに しんけつを そそぐ ことでは けっして ない。なくす だけで いいなら、なかった ことに して しまえば おわり だから である。
 はんさべつ・ひぼうりょく とは、ぼうりょくや さべつが おきた とき でも それを なかった ことに せず、ぼうりょくに よる きずを これ いじょう ふかく しない ように、けあ して いくために うごく こと である。どんな ひとの きずも ないがしろに しない、という じょうきょうを つくり だして いくこと である。そのような じみちな さぎょうを とおして こそ、さべつや ぼうりょくに よる きずの いたみが へって いくのだと おもう。
 そして、「はんにち」とは、にほんに すむ じぶんたち じしんを ふりかえり、もんだいを ちょくしし、きずを うけ こえを あげた ひとと いっしょに かいけつさくを かんがえて いく、はんさべつ・ひぼうりょくの さぎょう なのだと おもう。
 「なかよくしようね」が もつ むせきにんさや たいまんや ひきょうさ こそくさ とは、あきらかに いっせんを かくす。
 さべつや ぼうりょくに「のー」と いうとき、「なかよくしようね」と いう せんせいは、いらない。かたを ならべて みみを かたむけ、いっしょに かんがえる、そういう ひとこそが ひつようだ。だからこそ、じかいを こめて、「はんにち」。