韓基大さんからのメッセージ

韓基大さんからのメッセージです。2つめは、かんじつかってません。

****かんじ、つかってます****

差別がなくなることが、差別が出来る立場(特権)にある者と、差別されてきた立場にある者とが仲良くなることで、実現されることは絶対にない。

少し昔に、その時に得意先だった人間に対して、私が自民政権を批判する話をした。「そんなに日本が嫌なら朝鮮に帰れ」と返ってきた。しかし、そんな人間とも、生きるために仲良くしていた。誘われるまま一緒に飲みにいくこともしなくてはならなかった。印度料理のケイタリングの店を「土人の店」と言い放つその男に、2度ほど我慢の度を超えて、これを切ろうとしたこともあったが、その都度、その男は私に“仲良くしようよ”と言った。

酷い差別暴言を耳にしながら、そのことに怒りながらも平常心で生きていくことは、社会に出る前から訓練されてきた。小学校に通う子どものころ、“朝鮮人て怖い”や“汚い”というのを何度も聞かされた。在特会の連中が吐くヘイトはもともと日常的なものだった。私の同級生たちは、通名を使っていた私のことが何者か知らないからこういうことを遠慮もなく言えたのだろうか?たぶん、私が“在日”であることを知っていた子もいたはずだった。しかし、彼らは在日朝鮮人が何なのかは知らない。
植民地支配の残滓として残る“朝鮮”のイメージ。日本人に劣るから支配してかまわないと“国民”に信じさせるためにまき散らされてデマ、増長させられた差別意識が、子どもたちに意味も解らず「チョンコ」という言葉を口にさせる。こういうことが、この社会で生きていくために必要な態度が何なのかを在日朝鮮族に学ばせてしまう。通名を使って、朝鮮人に対する差別暴言が聞こえて来ても、自分は日本人のような顔でやり過ごす。排外と同化、植民地が無くなっても、植民地主義だけがいつまでも終わらないのだ。

被差別の人間を奴隷化するための手段が「排外と同化」であることを「仲バレ」に参加する人々はどれほど知っているのだろうか?在特会の主張がジェノサイドだったからそれを叩くのは当然の話だ。しかし、在特を叩く運動は、一方で強者と弱者の関係が解消されていないのに「仲良く」することを強要するパレードをする。強者と弱者、つまり「差別」という排外と、「仲良く」という同化の圧力、植民地主義は再生産され続けていつまでも終わらない。

被植民者が、差別を避けるために植民者に自ら同化していくことを選択する時に、植民地主義は完成する。そのことを、植民地ではないこの国にいて、被植民者の子孫である私は実感をもって知っている。無理解と偏見によってなされる排外主義は、同時に日本人に同化することを選択するように追い込んでくる。それに抗って本名を名乗れば、そのことが「反日行為」と扱われることも経験した。私のような在日朝鮮族の苦悩は、この日本社会が常に抱え続けるレイシズムの作用としてあるものだ。

強者である日本人の側から発せられる“仲良くしよう”は多くの在日同胞らの考える力を奪ってきた。子どもの時から染みついてきた“差別に対する恐怖”がどうしょうもなく判断力を奪っていく。そこに日の丸の旗を持ち込む人間がいようと、「慰安婦は特亜のでっち上げ」と言っている人間がいようと、それらを全て“国民”というくくりでまとめる国民運動に在日朝鮮族が同化していくことが止まらない。

私は許せないのだ。二言目には“連帯”を口にする左翼の活動家までもが仲バレに参加している。
“連帯”は結局のところ“仲良くしようぜ”ということだったのか?

まだ差別が無くなっていない世界で、差別されてきた側にも“仲良く”することを必要とする運動は強者の暴力でしかない、対等でない関係では同調圧力にしかならない。

取り返しのつかない間違いに早く気付いてくれ、いつまでも待てやしないのだから。

****かんじ、つかってません****

さべつが なくなることが、 さべつができる たちば(とっけん)にある ものと、 さべつされてきた たちばにある ものとが なかよくなることで、 じつげんされることは ぜったいにない。

すこし むかしに、 そのときに とくいさきだった にんげんに たいして、 わたしが じみんせいけんを ひはんする はなしをした。 「そんなに にほんが いやなら ちょうせんに かえれ」と かえってきた。 しかし、 そんな にんげんとも、 いきるために なかよくしていた。 さそわれるまま いっしょに のみにいくことも しなくてはならなかった。 いんどりょうりの ケイタリングの みせを 「どじんの みせ」と いいはなつ そのおとこに、 2どほど がまんの どをこえて、 これを きろうと したことも あったが、 そのつど、 その おとこは わたしに “なかよくしようよ”と いった。

ひどい さべつぼうげんを みみに しながら、 そのことに いかりながらも へいじょうしんで いきていくことは、 しゃかいに でるまえから くんれんされてきた。 しょうがっこうに かよう こどものころ、 “ちょうせんじんて こわい”や “きたない”というのを なんども きかされた。 ざいとくかいの れんちゅうが はく ヘイトは もともと にちじょうてきな ものだった。 わたしの どうきゅうせいたちは、 つうめいを つかっていた わたしのことが なにものか しらないから こういうことを えんりょもなく いえたのだろうか? たぶん、 わたしが “ざいにち”であることを しっていた こも いたはずだった。 しかし、 かれらは ざいにちちょうんじんが なんなのかは しらない。
しょくみんちしはいの ざんしとして のこる “ちょうせん”の イメージ。 にほんじんに おとるから しはいして かまわないと “こくみん”に しんじさせるために まきちらされた デマ、 ぞうちょうさせられた さべついしきが、 こどもたちに いみも わからず 「チョンコ」という ことばを くちにさせる。 こういうことが、 この しゃかいで いきていくために ひつような たいどが なんなのかを ざいにちちょうせんぞくに まなばせてしまう。 つうめいを つかって、 ちょうせんじんに たいする さべつぼうげんが きこえてきても、 じぶんは にほんじんのような かおで やりすごす。 はいがいと どうか、 しょくみんちが なくなっても、 しょくみんちしゅぎだけが いつまでも おわらないのだ。

ひさべつの にんげんを どれいかするための しゅだんが 「はいがいと どうか」であることを 「なかバレ」に さんかする ひとびとは どれほど しっているのだろうか? ざいとくかいの しゅちょうが ジェノサイドだったから それを たたくのは とうぜんの はなしだ。 しかし、 ざいとくを たたく うんどうは、 いっぽうで きょうしゃと じゃくしゃの かんけいが かいしょうされて いないのに 「なかよく」することを きょうようする パレードをする。 きょうしゃと じゃくしゃ、 つまり 「さべつ」という はいがいと、 「なかよく」という どうかの あつりょく、 しょくみんちしゅぎは さいせいさんされつづけて いつまでも おわらない。

ひしょくみんしゃが、 さべつを さけるために しょくみんしゃに みずから どうかしていくことを せんたくする ときに、 しょくみんちしゅぎは かんせいする。 そのことを、 しょくみんちではない このくににいて、 ひしょくみんしゃの しそんである わたしは じっかんをもって しっている。 むりかいと へんけんによって なされる はいがいしゅぎは、 どうじに にほんじんに どうかすることを せんたくするように おいこんでくる。 それに あらがって ほんみょうを なのれば、 そのことが 「はんにちこうい」と あつかわれることも けいけんした。 わたしのような ざいにちちょうんぞくの くのうは、 この にほんしゃかいが つねに かかえつづける レイシズムの さようとしてあるものだ。

きょうしゃである にほんじんの がわから はっせられる “なかよくしよう”は おおくの ざいにちどうほうらの かんがえる ちからを うばってきた。 こどもの ときから しみついてきた “さべつに たいする きょうふ”が どうしょうもなく はんだんりょくを うばっていく。 そこに ひのまるの はたを もちこむ にんげんが いようと、 「いあんふは とくあの でっちあげ」と いっている にんげんが いようと、 それらを すべて “こくみん”という くくりで まとめる こくみんうんどうに ざいにちちょうせんぞくが どうかしていくことが とまらない。

わたしは ゆるせないのだ。 ふたことめには “れんたい”を くちにする さよくの かつどうかまでもが なかバレに さんかしている。
“れんたい”は けっきょくのところ “なかよくしようぜ”という ことだったのか?

まだ さべつが なくなっていない せかいで、 さべつされてきた がわにも “なかよく”することを ひつようとする うんどうは きょうしゃの ぼうりょくでしかない、 たいとうでない かんけいでは どうちょうあつりょくにしか ならない。

とりかえしのつかない まちがいに はやく きづいてくれ、 いつまでも まてやしないのだから。