Romanceさんからのメッセージ

Romanceさんからのメッセージです。2つめは、かんじつかってません。

****かんじ、つかってます****

「7月20日(通称)反日デモ」の趣旨文に賛同します。私は、在特会などの草の根排外主義運動のデモ行進へのカウンターアクションに参加したことが何回かあります。排外主義者たちの掲げるスローガンはどれも、ここで再度提示することのできない、むき出しの暴力といっていいものであり、直面すれば言葉にできないほどの怒りがこみあげました。そしてそれは同時に,この日本社会がいつからか歴史的に持ち続けてきて今もなお広く共有されている「日本」に対する自己陶酔的なイメージ――勤勉で優秀な日本人、最もユニークで先進的な工業と文化、その産物としての経済的栄華、アジアのモデルとなるべき自由と平和、、、――こうした自己陶酔の最も醜悪な一側面をあられもなく引き伸ばして見せたものであり、ヘイト街宣こそ、日本人としてのある種の良識的態度のありうる帰結・結晶であるように感じました。対峙すればいやおうなくおちいる怒りは、自分自身もそれに連なってきて、そうしてともに育て上げてきたこの社会そのものが完全に許しがたいものとして迫ってくるような体験とも言えます。
ヘイト街宣を放置せず、同時にそれに反対する声があることを路上で示すその意義に賛同してそれなりの人数が集まることには勇気づけられる思いもあった一方で、カウンターのもつあやうさにもその当初から直面しました。その代表的なものを挙げるなら、例えばカウンター側の「日の丸」であり、また「みんな仲良く」のようなスローガンでした。日の丸は論外として、「仲良く」にしても、そもそも同化主義的なひびきがあるし、仲良くしたいから不正義を問題にするのでもなければ、どこかで「仲が良い」事例があれば不正義が解消されているわけでもないからです。「日の丸」については当時、当然の批判も出ながら「あえて」日の丸をかかげた勇気をたたえるような倒錯した議論や、同時に掲げられてた日の丸否定の表象や「反日上等」というフレーズがはげしい批判にさらされるという展開もありました。一方「みんな仲良く」はあまり話題になりませんでしたが、数年がたった現在、(「みんな仲良く」と「仲良くしようぜ」に連続性があるのかは知りませんが)「仲良くしようぜ」というよく似た(マッチョな語尾が加わってより悪くなったともいえる)フレーズが代表的なスローガンになっています。そして「反日」は忌避され、最近のカウンター行動に参加する人々の間でもいまだ嘲笑と憎悪の対象なのではないでしょうか。
現在では新聞雑誌テレビなど大手メディアはためらいなく歴史修正言説に与し、政権与党は制度的にも軍備としても露骨に軍事力強化を推し進めています。戦時加害の否定や相対化などの歴史修正言説は、煎じ詰めれば告発する個人を「金目当てのうそつき」であるとする前提に発しており、そんな本来どこでも通用するはずのない恥知らずの理屈が日本国内では受け入れられつつあります。国防をめぐる議論も「日本人なら反対するな」などという発言が政府中枢から出るありさまです。社会運動の現場でさえ、いや社会運動こそが「国民運動」と化していき、どれも撃つべき相手を撃たず「右翼の度量」の中でまどろんでいます。その中で、日本帝国主義の侵略や植民地支配からの連続性を指摘するような原則的な態度は、その主旨自体は(恥知らずなでたらめを並べない限りは)正面から否定されることはなく、奇妙なことに、その都度措定される「国民」や「大衆」を代弁して「理解が得られない」などと、あたかも真摯な運動論であるかのような口ぶりで留保されるか、運動破壊者として(「糞チョソン人」などと)排除されています。
自己陶酔イメージと表裏をなしながら不正義にこそ酔ってきたこうしたあり方を徹底的に反省し、粉砕する必要があります。ここで選ぶべき態度は「反日」以外にありえないと確信しています。そしてそうである以上、「仲良くしようぜ」などという同化的なスローガンに着地した運動とは趣旨として真っ向から対立するものでしょう。今回の「(通称)反日デモ」が同日同時刻に開催されることも意義あることだと思っています。

****かんじ、つかってません****

「7がつ 20にち (つうしょう)はんにちデモ」の しゅしぶんに さんどう します。わたしは、ざいとくかい などの くさのね はいがい
しゅぎ うんどうの デモこうしんへの カウンターアクションに さんか した ことが なんかいか あります。はいがい しゅぎしゃたちの
かかげる スローガンは どれも、ここで さいど ていじ する ことの できない、むきだしの ぼうりょく といって いいもの
であり、ちょくめん すれば ことばに できない ほどの いかりが こみあげました。そして それは どうじに,この にほんしゃかいが
いつからか れきしてきに もちつづけて きて いまも なお ひろく きょうゆう されて いる「にほん」に たいする じことうすいてきな
イメージ――きんべんで ゆうしゅうな にほんじん、もっとも ユニークで せんしんてきな こうぎょうと ぶんか、その さんぶつ としての
けいざいてき えいが、アジアの モデルと なるべき じゆうと へいわ、、、――こうした じことうすいの もっとも しゅうあくな
いちそくめんを あられもなく ひきのばして みせた もので あり、ヘイトがいせん こそ、にほんじん としての あるしゅの りょうしきてき
たいどの ありうる きけつ・けっしょうで あるように かんじました。たいじ すれば いやおうなく おちいる いかりは、じぶんじしんも それに
つらなって きて、そうして ともに そだて あげて きた この しゃかい そのものが かんぜんに ゆるしがたい もの として せまって くる
ような たいけん とも いえます。
ヘイトがいせんを ほうち せず、どうじに それに はんたい する こえが ある ことを ろじょうで しめす その いぎに さんどう して
それなりの にんずうが あつまる こと には ゆうきづけられる おもいも あった いっぽうで、カウンターの もつ あやうさ にも その
とうしょから ちょくめん しました。その だいひょうてきな ものを あげるなら、たとえば カウンターがわの「ひのまる」であり、また「みんな
なかよく」の ような スローガンでした。ひのまるは ろんがい として、「なかよく」にしても、そもそも どうかしゅぎてきな ひびきが
あるし、なかよく したい から ふせいぎを もんだいに するのでも なければ、どこかで「なかが よい」じれいが あれば ふせいぎが
かいしょう されて いる わけでも ないからです。「ひのまる」については とうじ、とうぜんの ひはんも でながら「あえて」ひのまるを
かかげた ゆうきを たたえる ような とうさく した ぎろんや、どうじに かかげられてた ひのまる ひていの ひょうしょうや「はんにち
じょうとう」という フレーズが はげしい ひはんに さらされる という てんかいも ありました。いっぽう「みんな なかよく」は あまり
わだいに なりませんでしたが、すうねんが たった げんざい、(「みんな なかよく」と「なかよく しようぜ」に れんぞくせいが あるのかは
しりませんが)「なかよく しようぜ」という よく にた(マッチョな ごびが くわわって より わるく なった とも いえる)フレーズが
だいひょうてきな スローガンに なって います。そして「はんにち」は きひ され、さいきんの カウンターこうどうに さんか する ひとびとの
あいだでも いまだ ちょうしょうと ぞうおの たいしょうなのでは ないでしょうか。
げんざいでは しんぶん ざっし テレビなど おおてメディアは ためらい なく れきし しゅうせい げんせつに くみし、せいけん よとうは
せいどてきにも ぐんび としても ろこつに ぐんじりょく きょうかを おしすすめて います。せんじ かがいの ひていや そうたいか などの
れきし しゅうせい げんせつは、せんじつめれば こくはつ する こじんを「かねめあての うそつき」である とする ぜんていに はっして
おり、そんな ほんらい どこでも つうよう する はずの ない はじしらずの りくつが にほん こくないでは うけいれられつつ
あります。こくぼうを めぐる ぎろんも「にほんじんなら はんたい するな」など という はつげんが せいふ ちゅうすうから でる
ありさまです。しゃかい うんどうの げんばで さえ、いや しゃかい うんどう こそが「こくみん うんどう」と かして いき、どれも うつべき
あいてを うたず「うよくの どりょう」の なかで まどろんでいます。その なかで、にほん ていこくしゅぎの しんりゃくや しょくみんち
しはい からの れんぞくせいを してき する ような げんそくてきな たいどは、その しゅし じたいは(はじしらずな でたらめを ならべない
かぎりは)しょうめん から ひてい される ことは なく、きみょうな ことに、その つど そてい される「こくみん」や「たいしゅう」を
だいべん して「りかいが えられない」などと、あたかも しんしな うんどうろん であるかの ような くちぶりで りゅうほ されるか、うんどう
はかいしゃ として(「くそ チョソンじん」などと)はいじょ されて います。
じことうすいイメージと ひょうりを なしながら ふせいぎに こそ よって きた こうした ありかたを てっていてきに はんせい し、ふんさい
する ひつようが あります。ここで えらぶ べき たいどは「はんにち」いがいに ありえないと かくしん して います。そして そうである
いじょう、「なかよく しようぜ」などという どうかてきな スローガンに ちゃくち した うんどうとは ししゅし として まっこう から
たいりつ する ものでしょう。こんかいの「(つうしょう)はんにち デモ」が どうじつ どうじこくに かいさい される ことも いぎある
ことだと おもって います。