(もんだいていき) 「こくみん なめんな!」 を めぐる あれこれ に ついて

ぜんかい の きじ の ひらがな ばん です。

いか の ぶんしょう は 1 がつ 23 にち に おこなった 「はんにち かふぇ」 で しゅさい から の もんだい ていき として はっぴょう させて いただいた ないよう と なります。
ぜひ、 みなさん も よんで かんがえて みて ください。 かんがえて きづいた こと を 「こくみん」 こーる を して いる ひと に つたえて みて ください。
また、 もし あなた が いま、 いろんな でも や こうぎ の ば で 「こくみん」 こーる を さけんで いる ほう なら、 たちどまって かんがえる きっかけ に して みて ください。

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「はんにち かふぇ」 もんだい ていき はっぴょう

「こくみん なめん な!」 を めぐる あれこれ について

はじめ に

こんかい、 <「こくみん なめんな!」 を めぐる あれこれ について> という だい を たてさせて いただきました。
しゃかい うんどう における 「こくみん」 こーる について とりあげたい という こと は とうしょ より かんがえて いた の です が、 じつは せんげつ (2015.12) に はんかがい を あるいて おりましたら、 しーるず かんさい が しゅさい する でも と そうぐう しました。
わたし は こわい もの みた さ も あり、 えんどう から じっと ながめて いた の です が、 でも の さんかしゃ の なかには しった かお も ちらほら みうけられる、 なかには、 えんどう に たつ わたし の すがた に きづいて えがお で て を ふりながら こえ を かけて くる ひと も いて、 しょうじき ちょっと ばつ が わるい おもい を した の です が、 そんな とき に きこえて きた の が 「こくみん なめんな!」 の こーる でした。
ざいにち ちょうせんじん である わたし の こと を いちおう は ゆうじん と おもって こえ を かけて くる その ひと も いっしょ に なって しょうわ する 「こくみん なめん な!」 の こうけい を まえ に して、 なんだか すーっ と ちのけ が ひく よう な おもい が した の を おぼえて います。
わたし は これ まで も 「こくみん なめんな!」 や 「こくみん の こえ を きけ!」 で あったり、 あるいは ひみつほう はんたい うんどう で よく め に した 「こくみん の め ・ みみ ・ くち を ふさぐ」 といった ふれーず にたいして はんたい を となえて きた の です が、 それ まで ずっと きょうちょう して きた の は 「こくみん じゃ ない ひと を はいじょ する よう な こーる は やめろ」 という こと でした。
もちろん、 その してん は いま でも だいじ な こと として ある の です が、 「こくみん なめんな!」 の しょうわ を じっさい に まえ に して わたし が いだいた ある しゅ の きもち わるさ、 あるいは きょうふかん という の は、 おそらく 「はいじょ されるから いや だ」 という かんかく に は かいしゅう できない、 それ を はみでる もの が あった と おもいます。
そして その いみ に おいては ほんとうに その ば に 「こくみん」 いがい が いる の か、 あるいは いない の か、 といった こと は たぶん、 かんけい ありません。
この わたし が だいた きもち わるさ、 きょうふかん は なん だった ん だろう と かんがえ を めぐらせて いく うち に ふと きづきました。

(ああ、 わたし は 「こくみん」 そのもの が こわい ん だ)

あそこ で まるで 「おれたち は こくみん だ!」 と さけんで いる ひとたち に おびえて いる の だ、 と。
「こくみん」 という がいねん は、 その たんじょう において は、 ある ひとびと にたいして より おおきな じゆう や びょうどう、 じんけん といった かいほう の いでおろぎー に なりえた もの だった の かも しれません が、 それ が どうじに 「こくみん」 あらざる もの を つくりだす はいじょ と よくあつ の いでおろぎー でも あった こと は いうまで も ありません。
そして わたし という ざいにち ちょうせんじん にとって それ は つねに こうしゃ で しか なかっ た わけ です。
わたし にとって 「こくみん」、 にほん こくみん と は どの よう な そんざい なのか。 それ は より つよいがわ であり、 さべつ して くる あいて であり、 はむかう ならば 「にほん が いや なら でて いけ」 と へいき に、 かんたん に くち に する ものたち なのです。 「こくみん なめんな!」 と しょうわ する ひとびとは こっか けんりょく の ほう しか むいて いない の でしょう が、 わたし にとって は 「こくみん」 も また わたし を よくあつ する けんりょく で しか ない わけ です。
この こと は たとえば まちちゅう で 「おとこ を なめんな!」 であったり、 「けんじょうしゃ なめんな!」 あるいは 「だいそつ なめんな!」 という よう な こーる が ひびけば どう であろう か と そうぞう して みると わかり やすい の かも しれません。
わたし にとって は、 「こくみん なめん な」 は 「こくみん」 と 「なめん な」 の ま に てん を いれて、 さらに わかり やすく 「おまえたち」 を つけくわえると むしろ ちょうど よく なります。 「こくみん、 おまえたち なめん な!」 と。
「〜なめん な!」 という こーる、 それ は しいたげられるがわ から はっせられる とき には こくはつ の こえ として きのう する の でしょうが、 ぎゃく の たちば から となえられる それ は おおきな きょうふ を よびおこします。

1.「はんせん」 うんどう における 「こくみん」 しょうわ、 2つの ようごろん

そんな はいじょ だけ でなく、 きょうふ を も よびおこす 「こくみん」 こーる です が、 これ まで けっして すくなく ない ひはん が ありながら も さき に のべた よう に いま に いたって も つかわれつづけて います。
わたし じしん、 かこ に ぎろん した さい に でて きた はんのう や、 た に 「こくみん」 こーる を ようご する いけん に ふれる なか で、 そこ には たいべつ して 2つの てんけいてき な ようごろん が ある こと に きづきました。

1つは
「こくみん」 と は にほん に すむ たみ、 ぜんたい の こと で ざいにち がいこくじん など を はいじょ して は いない、 という いけん。
つまり そこには はいじょ の いと は ない し、 おきて も いない という しゅちょう です。 (ようごろん 1)

そして もう 1つは、 
「こくみん」 つまり は しゅけんしゃ という せきにん しゅたい として にほん せいふ に こうぎ して いる の である から 「こくみん」 こーる は せいとうか されるという いけん です。 (ようごろん 2)

これら は それぞれ に もんだい を かかえた しゅちょう です ので、 いか 1つ ずつ けんとう を くわえて いく の です が、 それ に さきだって ひとつ の ぎもん を のべて おきたい と おもいます。
それ は これら ふたつ の ようごろん が、 けつろん において こそ 「こくみん」 こーる は せいとうか されるという いってん で いっち します が、 そこ に いたる りゆう が そうご に むじゅん するという こと です。 ぜんしゃ は はいじょ が ない という しゅちょう であり、 こうしゃ は はいじょ が ある こと は ぜんてい の うえ で せいとうか して いる わけ です から。 この たがいに あい いれる はず の ない しゅちょう によって 「こくみん」 こーる が ささえられ、 げんば で かた を ならべ しょうわ される ふうけい、 これ が いみ するのは なんなのか という ぎもん です。
この ぎもん ひとつ を のこしつつ、 それでは それぞれ の しゅちょう について けんとう を くわえて いきます。

2.ようごろん1 について
2−1.「かわり が ない」?えらび つかわれつづける 「こくみん」

「こくみん」 と は にほん に すむ たみ、 ぜんたい を あらわして いる の であって だれ も はいじょ して いない、 という しゅちょう について ですが、 まず そっちょくに いえる こと として 「はいじょ されて いる」 と うったえて いる そんざい を むし するな、 という つっこみ が あります。 いまさら こんな こと を あらためて いう ひつよう が ある の か という き も します が、 どんな つもり が ある の か という いと が かならずしも げんじつ の こうか、 けっか と いっち しない という の は あたりまえ の こと です。
だからこそ、 まずは うったえ を しんし に うけとめるという こと が なにごとにおいても きほんだと おもうのですが、 それ が ない。 また、 この よう な こと を いう ひと の なかには よく 「でも、 ほかに ぜんたい を あらわす ことば が ない」 といった はんのう も みうけられる の ですが、 これ も おかしい。
「じんみん」「たいしゅう」「しみん」「わたしたち」「みんな」 ・ ・ ・ と かわり が ない という ことは ない わけ です。
もちろん いま あげた もの なら なに も もんだいは ないのか と いえば、 そこ は きちんと ぎんみ する ひつよう も あるでしょうし、 そもそも おなじ ば を きょうゆう していても けっして いちまいいわ でなく、 それぞれ に さまざま な かんたん に こえられない、 こえて は いけない たいりつせん が むすう に ある ひとたちの あいだ で、 はたして みな を ひとつ に くくる ことば が ほんとうに ひつようなのか という もんだい いしき も じゅうようだと こじんてき に は おもって います。
また、 「じんみん」 といった ことば にたいして いでおろぎーせい を かんじて きひ する こえ も めずらしくない よう に おもわれます が、 わたし じしん も いでおろぎーまみれ と いえば まみれてる かな と おもわなく も ない です。 しかし そうであるなら ば よけい に、 「こくみん」 という ことば こそ はるか に きょうりょく な こっか いでおろぎー に ささえられた いでおろぎーまみれ、 しかも きわめて はいたてき な それ である こと を たな において は ならない と かんがえます。

2−2.ほう と 「こくみん」

「こくみん」 あるいは ひ「こくみん」 という がいねん は こっか いでおろぎー によって けいせい されると どうじに ほう によって きてい される そんざい であり、 ふたつ は とうぜん からみあって います が、 そのうち ほう によって きてい された せいかく は きゃっかんてき であり、 それ について は、 にほん に すむ たみ、 ぜんたい を あらわして いる つもり と いくら となえた ところ で びどう だに する こと は できません。
ここで ほう と 「こくみん」/ ひ「こくみん」 の かんけい を もっとも じょうい の ほう として にほんこく けんぽう を とりあげて みます。
にほんこく けんぽう は その もんごん において 「こくみん」 と かかれて ある こと は ひろく しられた じじつ です が、 これ が きわめて いとてき に ひ「こくみん」 を つくり はいじょ する もくてき、 とくに きゅうしょくみんち しゅっしんしゃ である たいわんじん ・ ちょうせんじん を はいじょ する もくてき に そう もの であった こと は、 にほんこく けんぽう の せいりつ かてい を ふりかえると めいかく に なります。 ここ で は 3 てん あげます。

1つ は ほんやく の もんだい が あります。 えいご の げんぶん で は People とある もの を あえて 「こくみん」 と ほんやく した こと です。 「こくみん」 という にほんご は Nation の やくご として 1900 とし ぜんご、 にっしん ・ にちろ せんそうあたり から いっぱんか して きたらしく やはり せんそう、 しょくみんち しゅぎ と きりはなせない ことば です が、 これ を あえて えらんだ こと。
ほんやく の もんだい で は 14じょう の びょうどう げんそく に も あります。 これ も、 もともと GHQ そうあん で は All natural person つまり 「すべて の しぜんじん」(いっさい の しぜんじん) と なるべき もの を、 まず えいご げんぶん の しゅご を そうあん の All natural person から person に かえた うえ で さらに、 これにも 「こくみん」 という やく を あたえて おり、 びょうどう の げんそく は 「こくみん」 かん どうし の ものへと げんてい されました。 これ は じんしゅ、 しんじょう、 せいべつ、 しゃかいてき みぶん または もんち によって さべつ されない と うたいつつ、 こくせき を そこ から じょがい した こと に も うらづけられます。

2つめ は すでに 14じょう の せつめい が さきどり して います が、 けんり の しゅたい を せばめる ため の そうあん そのもの へ の へんこう です。 GHQ そうあんには その 16じょう に おいて 「がいこくじん は びょうどう に ほうりつ の ほご を うくる けんり を ゆうす」 という もんごん が ありました が、 これ に たいおう する げんけんぽう の じょうぶん は そんざい しません。

そして 3つ め は きわめつけです が、 てんのう ひろひと さいご の ちょくれい です。 にほんこく けんぽう が しこう される ぜんじつ の 1947 ねん 5がつ 2にち めいじ けんぽうか の さいご の ちょくれい として がいこくじん とうろくれい が こうふ、 そくじ てきよう された こと により たいわんじん および ちょうせんじん について 「とうぶん の あいだ、 これ を がいこくじん と みなす」 と された の です。
これ で は、 にほんこく けんぽう が ぜんぶん に つづく その だいいっしょう だいいちじょう から はちじょう において てんのうせい を そんぞく させ こっか と 「こくみん」 とうごう の しょうちょう と した こと も まるで うなづけて しまうとしか いいようがない よう に おもいます。
このように ほう による 「こくみん」 の、 そして ひ「こくみん」 の きてい の ありかた が すでに こっか いでおろぎー を ぐげんか するという の は あたりまえ と いえば あたりまえ の ことですが、 それは こくせきほう に も よく あらわれて います。
とくに 「きか」 ようけん を さだめた ごじょう の さん、 よん、 そして ろく を ごらん いただければ と おもいます。

さん   そこう が ぜんりょう である こと
よん   じこ または せいけい を ひとつ に する はいぐうしゃ そのた の しんぞく の しさん または ぎのう によって せいけい を いとなむ こと が できる こと
ろく   にほんこく けんぽう しこう の ひ いご に おいて、 にほんこく けんぽう または その もと に せいりつ した せいふ を ぼうりょく で はかい すること を くわだて、 もしくは しゅちょうし、 もしくは しゅちょう する せいとう そのた の だんたい を けっせい し、 もしくは これに かにゅう した こと が ない こと

ここには にほん という こっか が いかなる そんざい を 「こくみん」 として むかえいれ、 そして いかなる そんざい を ひ「こくみん」 として とどめ、 はいじょ し、 ついほう したい か という いし が ひょうげん されて います。

2−3.ひ「こくみん」 の けんり じょうきょう

そして、 この よう に 「こくみん」 と せっと で つくられた ひ 「こくみん」 が どの よう な しょぐう に おかれて いるか について、 みて いきたい と おもいます が、 その ぜんたい を えがききる こと は わたし の のうりょく を こえます し、 また とても すうじかん で おさまる はなし で は ない の です が、 ほんの いちぶ です が さんこう に して いただければ と おもいます。

まず しゃかい ほしょう について です が
せいかつ ほご は がいこく せき および むこくせきしゃ に たいして これ は けんり で は なく おんけい あつかいと なって おり、 じっさいじょう は じゅきゅう は かのう です が、 ふとう に しんせい が きゃっか されたり、 また じゅきゅう して いて も うちきられたり して も ふふく もうしたて が できない と されて います。
また こくみん ねんきん ・ しょうがい ねんきん について は なんみん じょうやく の ひじゅん に ともない しゃかい ほしょう における 「ないがいじん びょうどう」 の げんそく より それぞれ 1982ねん に こくせき じょうこう が てっぱい され さらに こくみん ねんきん は 1986ねん に から きかん さんにゅう も できる よう に ほう かいせい が ありました ので、 おおく の がいこく せきしゃ も かにゅう できるよう に なりましたが、 すでに かけきん が はらえる きかん を みたせない こうれいしゃ や 82ねん とうじ すでに 20さい いじょう の しょうがいしゃ は むねんきん じょうたい に おかれました。 これ は せいど かいしじ に どうよう の もんだい が にほんじん に おこった とき、 あるいは、 ちゅうごく ざんりゅう こじ だった ひとびとのうち にほん で せいかつ する よう に なった ひとびとで どうよう の もんだい が おこった とき に は きゅうさい そち が とられた こと を かんがみて も あきらか に さべつてき な しょち です。 この うち ざいにち ちょうせんじん の むねんきん こうれいしゃ と しょうがいしゃ の ひとびとは きょうと や おおさか、 そして ふくおか で それぞれ くに の ふさくい を うったえて さいばん で たたかいました が、 いずれ も はいそ と なり、 むねんきん じょうたい は げんざい も つづいて います。

きょういく の けんり は どう でしょう。
ちょうせん がっこうへの さべつ の はなし だけ でも あげきれません が、 2000ねんだい に はいって から の ものでも、 たとえば ちょうせん がっこう せいと の こっこうりつ だいがく へ の じゅけん しかく は ながらく とざされて おり、 わざわざ だいけん (とうじ) を とって じゅけん しなけれ ば ならない という じょうきょう でした。 みんじゅれん など にほん の がくせい ゆうし とも れんけい し うんどう を てんかい して いく なか で 2003ねん に ようやく いちおう の もんこ が ひらいた という けいい が あります。 こっこうりつ だいがく いがい において も ちょうせん がっこう そつぎょうせい の しんがく を みとめない、 あるいは すいせん にゅうし しかく を あたえない という じれい は いま でも とき に でて くる こと は あります。 こうこう むしょうか せいど から いまだに ちょうせん がっこう の せいと が じょがい されつづけて いる こと も つけくわえて おきます。

しゅうしょく は どう でしょう
みんかんでも みんぞく さべつ の じれい は ことかかないです が、 よく あるのは みんぞくめい の しよう を みとめない という こと や、 きんねん で は いやがらせ もくてき で にほんめい しようしゃ にたいして みんぞくめい を きょうせい した という じれい も あります。 これは しゅうしょく して から の さべつ です が、 そもそも その きかい を うばわれる さべつ も あります。 たとえば こっか しかく だいいっしゅ に あたる よう な しょくぎょう から は はいじょ されて います し、 ちほう こうむいん において も かちょう いじょう の みち が とざされいるという の が げんじょう です。 べんごし や だいがく きょういん など ひとむかし は なれなかった が とうそう によって かちとった もの も すくなく ありません。

さんせいけん について、 
ごぞんじ の よう に せんきょけん ・ ひせんきょけん は ちほう ・ こくせいとも に みとめられて いません。

また、 「こくみん」 は ひ「こくみん」 の なか でも さらに せいき / ひせいき、 ごうほう / ふほう、 ゆうこくせき / むこくせき と さらに せん を ひいて いきます が、 この うち ひせいき たいざいしゃ と された ざいりゅう しかく の ない がいこくじん および むこくせきしゃ は じじつじょう の むけんり じょうたい に おかれて います。 たいきょ きょうせい じゆう に がいとう すると うたがわれれば、 にゅうかん は その 「ようぎしゃ」 を さいばんしょ の れいじょう なし に らち ・ かんきん して とりしらべ を おこない、 たいきょ きょうせい (きょうせい そうかん) が けってい されれば、 そうかん まで の あいだ、 ごうもん に も ひとしい むきげん の かんきん を おこなって います。 びょうき で も いしゃ に みせなかった という じれい、 いちにち の うち に なんほん も おやしらず を ぬく しゅじゅつ を させられた じれい、 ひがしにほん だいしんさい が はっせい した とき に は ひなん させるどころか にげないように かぎ を かけた という じれい も あります。 また むりやり に きょうせい そうかん させる ため に ちからずく で ひこうき に のせよう と する なか で がーなじん だんせい を さつがい した という じけん も 2010ねん に おきて います。 この じけん は ちさい で は ひがいしゃ が しょうそ しました が、 こうさい で は ぎゃくてん はいそ と なって しまいました。

2−4.ふかしか の ぼうりょく、 さいげん される しょくみんち しはい

ここ で あらためて ようごろん 1 に たちかえります が、 「こくみん」 が かれら が しゅちょう する よう に ほんとうに にほん に すむ たみ ぜんたい を あらわして いる の であれ ば、 「こくみん」 の びょうどう を うたう けんぽうか に いきる、 これら さべつ され、 とき に はくがい される がいこく せきしゃ、 むこくせきしゃ は <なにもの> という こと に なる の でしょう か。
それ は つごう の わるい なにか ごーすと の よう な そんざい でしょう か。
「こくみん」 が にほん に いきる みな を さすという、 いっけん 「かんよう」 で 「へいわ しゅぎ」 てき な この いけん の ひょうめい は、 ひ「こくみん」 が げんじつ に どのような ふあんてい な じょうきょう に さらされて いるか を みないふり を するための ゔぇーる で は ないでしょうか。 そして、 そのような じょうきょう に さらされて なお ひ「こくみん」 の まま ていこう して きた ひとびとの そんざい、 その れきし を も つつみかくし、 さべつ を けっきょく は おんぞん する ほうこう に しか なりえない と わたし は かんがえます。
そして、 このように いっぽう で ほう の てきよう においては しいてき に さべつ の せん を ひきながらも、 たほう で は 「こくみん」 として わごう を よびかける こうい は まさに、 しょくみんち しはい を そうき させます。 じつは わたし が この ようごろん に もっとも きょひ かんじょう を おぼえた の は この ぶぶん です。 「また おまえら の つごう の いい とき だけ 「こくみん」 に させるのか」 と、 こう おもった の です。 しょくみんち とうち において にほん は ちょうせんじん も たいわんじん も ていこく しんみん として てんのう の ために しぬ こと を、 その ため に いったい に なることを ようきゅう しながら も、 たほう で は ちょうせん こせきれい、 たいわん こせきれい という かたち で ほうてき に さべつ の せん を ゆずりませんでした。 さき に のべた がいこくじん とうろくれい について も おなじ たぐい の こと として とらえられるでしょう。 おなじ こと を 「はんせん」 うんどう の ば で も けいけん する とき、 わたしは いま も つづく だいにほんていこく の ねぶかさ に み が ふるえる おもい が します。

3.ようごろん 2 について
3−1.「こくみん なめんな!」 に せんこう する むおん の こーる

2つめ の ようごろん に うつります。
「こくみん」 つまり は しゅけんしゃ という せきにん しゅたい として せいふ に つきつける うんどう なのだから せいとう である、 という これ です が、 さき に ことわって おくと わたしは せきにん しゅたい として の にほん こくみん が たちあらわれる こと を かならずしも ひてい しません。 しかし、 それは せきにん の べくとる、 つまり だれ に おうとう する ため の せきにん しゅたい であるか が ぽいんと に なります。 にほん こくみん が せきにん しゅたい として たちあらわれる べきなのは、 それは まさに ひ「こくみん」 から の こくはつ の おうとう しゅたい として です。 ぐたいてきには かこ の しんりゃく せんそう、 しょくみんち しはい せきにん を にほん は はたさず に きましたが、 これは にほん こくみん が あじあ の みんしゅう に たいして おう せきにんだと おもいます。
しかし ここ で かたられて いる こと は まるで ちがう わけ です ね。 ここ で かたられる せきにん は にほん の たしゃ に むかず に、 「こくみん」 の こっか に たいする せきにん という ふう に、 こっか の なか で とじて かんけつ して しまって います。 そして それ を きそ つけて いる の が 「こくみん」 こそ が しゅけんしゃ である という しんねん です。 かれらは 「こくみん なめんな!」 こーる を とおして、 「わたしたちは こくみんだ!」「こくみん が しゅけんしゃだ!」「しゅけんしゃ である わたしたち を なめんな!」 という むおん の こーる を さけんで いると おもうんです ね。
さき に けんぽう の せいりつ かてい でも あきらか に なった よう に、 「こくみん」= しゅけんしゃ という にほん の こくみん しゅけん、 それ に もとづく 「せんご」 たいせい という の は しょくみんち みんしゅう の きりすて に ほかならない わけ でした。 その 「せんご」 みんしゅしゅぎ に たいする ひはんてき しざ が かんぜん に うしなわれて おり、 それは こくふく されるべき もの で は なく、 まもるべき もの へ と なって しまって います。

3−2.「わたし」 の むりょくか

また、 この ようごろん の たちば から 「こくみん なめんな!」 を きくと もう ひとつ の こと を おもいます。 それは 「わたし」 そのもの より も 「こくみん である わたし」 の ほう が じょうい である と みずから みとめて しまって いる こと です。 「わたし」 そのもの の かち を、 そんげん を、 あるいは、 ちから を しんじて いない と いって も よい でしょう。 これでは しゃかい うんどう を 「ぎかいせい みんしゅしゅぎ」 の わくない という げんかい に とじこめて しまう の は さけられない よう に おもいます。 それ を もっとも つうせつ に かんじた の が、 せんそうほう が ぼうりょくてき に (「ひげ の たいちょう」 とか ほんとに なぐって いましたね) きょうせい かけつ された とき に おもいました。 そのとき に なって も こっかいがい で は 「つぎ は せんきょだ!」 と さけばれた わけ です。 わたし は いまさら びっくり は しませんでしたが、 ほんとに つい いましがた まで なに を みせられた つもり な の だろうか と つくづく ふしぎ に なりました。

3−3.「こくみん」 は 「こくみん」 を だいひょう できない、 とうち する がわ の ため の ことば として の 「こくみん」

おもうに 「こくみん」 こーる は べつ の てん でも ふしぎ です。 という の は あらゆる せいじてき いしゅー の その ほとんど において 「こくみん」 ないぶ であっても その いけん が いっち する こと は なく、 かならず と いって よい ほど たいりつ が あるという たんじゅん な じじつ ひとつ とって みて も わかります が、 「こくみん」 が 「こくみん」 を だいひょう する の は ふかのう です。 それは たすうは に なっても かわりません し、 そもそも しゃかい うんどう の おおくの ばあい に おいて たたかい は いつも しょうすうは から の よう に も おもいます。 いずれにせよ かず に かかわらず、 なに を もって 「こくみん の りかい」、 「こくみん の こえ」 と するか を きめる の は とうち する がわ でしょう。 「こくみん」 と は もともと、 そして いまでも とうち する がわ の ため の ことば だから です。 そう かんがえると、 かれらは えらばれなかった がわ の 「こくみん」 である こと に いかって いる の かも しれませんし、 すでに とうち する がわ による ひ「こくみん」か が はじまって いる こと を どこかで かんじとって 「わたしたちは こくみんだ!」 と さけんで いる の かも しれません。 しかし、 わたしは これが しん の たいこう に なりえると は おもえません。

3−4.<こっか けんりょく たい こくみん> という こうず の ふかのうさ

なぜなら、 こくみん こっか と その 「こくみん」 こそ が 「こっか、 こくみん を まもる ため」 という たいぎめいぶん を もって せんそう を すいこう する しゅたい だから です。 「こくみん」 の せき に しがみつきながら こっか に たいじ しようとしても、 それは いつでも ようい に こっか けんりょく に かいしゅう され てんかん する こうぞう を かかえる こと に なる の は ひつぜん で は ないでしょうか。 わたしは それを、 はん せんそうほう の うんどう に おいて で すら じえいたい と こべつてき じえいけん を ようにん し、 さらには それを より あんてい させる ため に 9 じょう かいあく の しじ まで でてくる げんしょう に みてとります。 「しゅうだんてき じえいけん は にほん を まもる こと に は ならず、 こくみん を より おおきな きけん に さらす」 という ろじっく も この わくない に あります。 ここで おきているのは こっか と 「こくみん」 を まもる ため の より よい さく を めぐる、 とうそう で は なく こうしょう であり、 ほんらい あじあへの せきにん という いみ を もつべき けんぽう 9 じょう で すら その どひょう に のせられていると おもうのです。 きょねん さんか した きょうと の わり と おおきな でも で は 「じえいたいいん を まもれ」 という こーる まで ありましたが、 そもそも せんそう を する ため の くんれん を させる じえいたい そのもの の はいし を となえる こえ は そこに ありませんでした。
こくみん こっか という せんそう そうち を より きょうこ に する げんせつ による はんせん うんどう は せんそう で せんそう を こくふく すると いうくらい むり な はなし で は ないでしょう か。 せんそう しゅたい として の こくみん こっか に たいこう しうる の は 「こくみん」 では なく ひ「こくみん」 であり はんこっか、 つまりは はんにち である と わたしは おもいます。

おわりに

じかん も まいりました ので、 いじょう 「こくみん」 こーる を ささえる 2 つ の ようごろん を けんとう して まいりました。 この 2つの そうご むじゅん する こえ に よって ささえられる いみ に まで は たどりつけませんでしたが、 このあとの でぃすかっしょん で も いけん を うかがえると うれしいです。 また、 うんどう が ここ まで いたった きせき を わたしたち は どこ から とらえ、 また かこ の きょうくん を も かんがみて どこ へ すすむのか も、 こんご の かだい として かんがえたい ところ です。
ごせいちょう ありがとうございました。