さるとらさんからのメッセージ

さるとらさんからのメッセージです。2つめは、かんじつかってません。

****かんじ、つかってます****

 サルトルというフランスの哲学者はかつてこのように言いました。
「まず思いもかけぬ見世物を直視せねばならない。それはわれらのヒューマニズムのストリップという代物だ。今やヒューマニズムは素っ裸だ。おまけにちっとも美しくない。それは欺瞞のイデオロギー、まことに見事な強奪の正当化に他ならなかった。ヒューマニズムがふりまく愛情と気取りとが、われわれの侵略を保証していたのだ。」
「ヨーロッパの人間であるということは、われわれすべてが植民地の搾取から利益を得てきた以上、植民地主義との共犯を意味する。」
「何という饒舌だろう――自由、平等、友愛、愛情、名誉、祖国、その他なにやかやだ。だがそれも、われわれが同時に、黒んぼめ、ユダヤ人め、アルジェリアのねずみめ、と人種差別的な言辞を弄するのを妨げはしなかった。リベラルで良識ある人びと――要するに新植民地主義者は、こうした矛盾にショックを受けたと公言していた。だがこんな言葉は、錯誤でなければ自己欺瞞である。われわれヨーロッパ人にとって、人種差別的ヒューマニズム以上に筋道の通った話はない。なぜならヨーロッパ人は、奴隷と怪物を拵えあげることによってしか、自己を人間にすることができなかったからだ。」
 また、サルトルは別のところではこのように言っています。
ヒューマニズムという言葉は労働者階級の搾取を覆いかくすためのものですし、平等を唱えながら、じつは帝国主義新植民地主義・人種差別・女性の社会的地位の低さ等々をまかり通しています。自由とはまったくの形式に堕した民主主義と疎外の謂に他なりませんし、平和とか進歩とか兄弟愛とかいう標語も、要するに戦争に通じる侵略的帝国主義を隠蔽するためのものとなっています。現在のヴェトナム戦争がその好例です。豊かな社会を謳歌しながら、一方で二十億もの飢えた人びとが放置されています。/一言でいえば、人は贋の普遍性でもってわれわれの社会の現実──少数の人間が大多数の人間を搾取しているという現実──を覆いかくしているのです。」
 サルトルは、「リベラルで良識ある人びと」と、その「ヒューマニズム」の欺瞞性を激しく批判しました。しかし、これらの批判は、まったくそのまま、日本における「平和」や「民主主義」、そして「仲良く」といったものにもあてはまるでしょう。それは、われわれの社会(日本社会)の現実を覆いかくすために機能している(してきた)のです。
 「平和」や「民主主義」といいながら、戦後日本は、侵略戦争と植民地支配の反省もなく、米軍基地を沖縄に集中させ、朝鮮戦争ベトナム戦争といったアメリカの帝国主義戦争に加担し、また、在日朝鮮人差別、アイヌ差別、部落差別、女性差別、等々をまかり通してきました。それは今日でもまったく変わらず、日本は、「テロとの戦い」という名目のもとにアフガニスタンイラクへの侵略戦争を遂行したアメリカを一貫して支持し、「自衛隊」という名の軍隊を派兵しました。そして、過去の侵略戦争と植民地支配に対する日本の責任を問うことを「自虐史観」「反日」などと非難する声はますます高まっています。
 必要なこと(そして必要だったこと)とは、ずっと続いてきたこうした日本社会のあり方を根底から変えること、であって、デモのあり方を目新しいものに変えることなどではありません。ましてや、右翼や歴史修正主義者でも受け入れることが「新しさ」なのだとしたら、そんなことは論外です。

****かんじ、つかってません****

 サルトル という フランスの てつがくしゃは かつて このように いいました。
「まず おもいも かけぬ みせものを ちょくしせねば ならない。それは われらの ヒューマニズムの ストリップという しろものだ。いまや
ヒューマニズムは すっぱだかだ。おまけに ちっとも うつくしく ない。それは ぎまんの イデオロギー、まことに みごとな ごうだつの
せいとうかに ほかならなかった。ヒューマニズムが ふりまく あいじょうと きどりとが、われわれの しんりゃくを ほしょう して いたのだ。」
「ヨーロッパの にんげん である という ことは、われわれ すべてが しょくみんちの さくしゅから りえきを えて きた
いじょう、しょくみんちしゅぎ との きょうはんを いみする。」
「なんという じょうぜつ だろう――じゆう、びょうどう、ゆうあい、あいじょう、めいよ、そこく、その ほか なにやかやだ。だが
それも、われわれが どうじに、くろんぼめ、ユダヤじんめ、アルジェリアの ねずみめ、と じんしゅ さべつてきな げんじを ろうするのを
さまたげは しなかった。リベラルで りょうしきある ひとびと――ようするに しん しょくみんち しゅぎしゃは、こうした むじゅんに
ショックを うけたと こうげん して いた。だが こんな ことばは、さくごで なければ じこ ぎまん である。われわれ
ヨーロッパじんにとって、じんしゅ さべつてき ヒューマニズム いじょうに すじみちの とおった はなしは ない。なぜなら
ヨーロッパじんは、どれいと かいぶつを こしらえ あげる ことに よって しか、じこを にんげんに する ことが できなかったからだ。」
 また、サルトルは べつの ところでは このように いって います。
ヒューマニズム という ことばは ろうどうしゃ かいきゅうの さくしゅを おおいかくす ための ものですし、びょうどうを
となえながら、じつは ていこく しゅぎ・しん しょくみんち しゅぎ・じんしゅ さべつ・じょせいの しゃかいてき ちいの ひくさ とうとうを
まかり とおして います。じゆうとは まったくの けいしきに だした みんしゅしゅぎと そがいの いいに ほかなりませんし、へいわ とか
しんぽ とか きょうだいあい とかいう ひょうごも、ようするに せんそうに つうじる しんりゃくてき ていこく しゅぎを いんぺい する
ための ものと なって います。げんざいの ヴェトナムせんそうが その こうれいです。ゆたかな しゃかいを おうか しながら、いっぽうで
20おくもの うえた ひとびとが ほうち されて います。/ひとことで いえば、ひとは にせの ふへんせい でもって われわれの しゃかいの
げんじつ──しょうすうの にんげんが だいたすうの にんげんを さくしゅ して いる という げんじつ──を おおいかくして いるのです。」
 サルトルは、「リベラルで りょうしき ある ひとびと」と、その「ヒューマニズム」の ぎまんせいを はげしく ひはん
しました。しかし、これらの ひはんは、まったく そのまま、にほんに おける「へいわ」や「みんしゅしゅぎ」、そして「なかよく」といった
ものにも あてはまるでしょう。それは、われわれの しゃかい(にほん しゃかい)の げんじつを おおいかくす ために きのう して いる(して
きた)のです。
 「へいわ」や「みんしゅしゅぎ」と いいながら、せんご にほんは、しんりゃく せんそうと しょくみんち しはいの はんせいも なく、べいぐん
きちを おきなわに しゅうちゅう させ、ちょうせん せんそうや ベトナム せんそう といった アメリカの ていこくしゅぎ せんそうに
かたんし、また、ざいにち ちょうせんじん さべつ、アイヌ さべつ、ぶらく さべつ、じょせい さべつ、とうとうを まかり とおして
きました。それは こんにちでも まったく かわらず、にほんは、「テロとの たたかい」という めいもくの もとに アフガニスタンイラクへの
しんりゃく せんそうを すいこう した アメリカを いっかんして しじし、「じえいたい」という なの ぐんたいを はへい
しました。そして、かこの しんりゃく せんそうと しょくみんち しはいに たいする にほんの せきにんを とう ことを「じぎゃく
しかん」「はんにち」などと ひなん する こえは ますます たかまって います。
 ひつような こと(そして ひつようだった こと)とは、ずっと つづいて きた こうした にほん しゃかいの ありかたを こんていから
かえる こと、であって、デモの ありかたを めあたらしい ものに かえる こと など では ありません。ましてや、うよくや れきし
しゅうせい しゅぎしゃ でも うけいれる ことが「あたらしさ」なのだと したら、そんな ことは ろんがいです。