7月20日は(通称)反日デモ!


★(ぜんぶん ひらがなの きじは こちら→
http://d.hatena.ne.jp/kokuminyamero/20140620/1403236573 より)

★デモ詳細こちら→7月20日の(通称)反日デモの詳細ならびに第二弾の開催について

自由と人権は「国民」の占有物ではないと考えるひとびとです。きたる7月20日に、(通称)反日デモと銘打って京都でデモ行進をおこないます。
詳細については、7月初旬にお伝えすることになりますが、以下はなぜ私たちが今回7月20日にデモをすることになったのかその趣旨となります。ぜひご一読をよろしくおねがいします。

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7月20日は、(通称)反日デモ

1.在特会とは何者だ

 新大久保で、鶴橋で、ウトロで・・・各地でおもに在日朝鮮人を対象とした排外主義デモが近年猛威をふるっています。「ヘイトスピーチ」は昨年の流行語にもなりました。一方で在特会在日特権を許さない市民の会)のようなヘイトクライム集団に対して日本の市民社会は許容しないという声も高まりをみせてきました。
 その光景に日本もまだ捨てたもんじゃないと誇りを持つひともいるかもしれません。
 しかし在特会レイシズムヘイトスピーチといった言葉が注意をひきつけるようになった結果、なにが改善されたでしょうか?あいかわらず、朝鮮への制裁がつづき、朝鮮学校は高校無償化から除外され、などなど。排外主義批判がさかんに語られるいっぽうで、日本政府による排外主義がほとんど語られない、周縁化すらされているという奇妙な状況があります。
 政府による排外主義が、在特会らに力をあたえている。その意味において、在特会らは日本という「在特会社会」の一部であり、また映し鏡です。そこで在特会らだけを焦点化するのでは、いわば排外主義の本体である、「在特会社会」、日本の差別構造が隠蔽されることになります。
 そもそも日本の排外主義の最たる特徴はそれが日帝侵略戦争、植民地支配という加害に対する責任の放置に由来しているということです。そのことは、在特会らの攻撃が、かれらの言葉で言うところの「特定アジア」にとくにむけられている事実からもあきらかです。日帝の加害責任を問う声を中傷し無化しようとするところに在特会らの攻撃が動機づけられているのは明白なのです。
 そして、たとえば朝鮮学校に対する高校無償化からの除外や補助金の打ち切りは朝鮮学校が「反日」教育をおこなっているからという口実のもとおこなわれてきました。「反日」教育をおこなっている朝鮮学校の生徒を高校無償化の対象に含めたり、補助金を支給すること(つまり平等に扱うこと)は「国民(都道府県民)の理解」が得られないという始末です。この「反日」という言葉こそ、日帝の加害責任を問う声に対しこれを無化しようと貼り付けられてきたレッテルです。こうした「反日」の否定的な用法が、日本の政府や自治体やマスメディアにおいてすでに一般化しているどころか、「反レイシズム」をかかげる社会運動の一部からすら聞かれるところに、在特会らの排外主義がこの日本社会においてなんら「特殊」な「例外」ではないことがあらわれています。日本の排外主義とは何なのか、日帝侵略戦争、植民地支配という加害の歴史と切断しては理解できないはずなのです。
 私たちは、日本の排外主義に抗っていくためにも、歴史的に植民地主義によって構築された差別構造そのものを討たなければならず、それに対してあいまいな姿勢のままに唱えられる「友好」はむしろ差別構造の隠蔽に加担するものとしてこれを拒否すべきだと考えています。

2.「友好」、「仲良くしよう」の標語のもとで進行する差別構造の隠蔽について

 これについてさらに展開します。象徴的な例として、今年4月20日、韓国のソウルで行われた日韓なかよくしようぜ会主催による「NO!RACISM!日韓友好ソウルパレード」を取り上げてみましょう。

“日本と韓国・朝鮮の間には、歴史的、政治的問題が存在します。しかし、その問題の本質とまったく関係ない民族憎悪、差別扇動により多くの人が傷つけられました。これによって民主主義社会における自由と公平性の確立、日韓両国の望ましい外交関係が困難な事態となっています。私たち「日韓仲良くしようぜ会」(本部南ソウル大学桜井研究室)は、人権と民主主義を尊重し、平和的な国際社会を謳う日韓市民の集まりです。日本と韓国を行き来しながら在特会への抗議活動を行ってきた者を中心に結成され、昨年11月から、ソウル市鐘路区の光化門の近くで、日本の排外主義団体の反韓デモに反対するプラカードデモを毎週土曜日に開催してきました”

 これは「友好」が無責任維持のために謳われる典型のようなものです。言及されている民族憎悪・差別扇動の問題の本質はまさに日本と韓国・朝鮮の間に存在する「歴史的・政治的問題」にあるからです。「日韓両国の望ましい外交関係」を排外デモ<が>困難にしているのではありません。日本が繰り返し加害の歴史を隠蔽、歪曲し、戦後補償責任を果たさない姿勢を堅持し続けることによって、日本と朝鮮南北との望ましい関係はくじかれ続けているのにもかかわらず、排外デモに原因をきせることによって「歴史的・政治的問題」の本質をまさに語らせない力が働いているのです。
 だからこそか、この趣旨文には奇怪な但し書きがあります。

 “本パレードは、レイシズム反対を趣旨としており、朝鮮学校朝鮮籍在日コリアン北朝鮮の無辜の市民の存在を排除するものではありません”

 朝鮮学校の高校無償化からの排除、朝鮮籍者へのより過酷な差別、朝鮮民主主義人民共和国のへの制裁政治はまさに日本政府主導のレイシズム、排外主義の問題です。本来ならば、レイシズム反対であるからこそ、朝鮮排除を許さないという立場でなければならないはずなのに、ここではレイシズム反対という趣旨と朝鮮排除の問題がまるで異なるイシューであるという扱いになってしまっています。つまり「排除するものではありません」というこの一文は、レイシズム反対の運動から朝鮮排除の問題を皮肉にも切断しているのであり、これは実際には排除の上書きとして機能しています。
 朝鮮排除のもとで仲良く手をつなぐ<人権と民主主義を尊重し、平和的な国際社会を謳う日韓市民の集まり>とは何でしょうか?これはまさに朝鮮を「敵国」とした日本、韓国、(そしてアメリカ)との間の軍事的な連帯関係をそのままなぞるもので、韓国軍と自衛隊(日本軍)が親善マーチやるようなものであり、だからこそ「北朝鮮の無辜の市民」(後に「朝鮮民主主義人民共和国の無辜の市民」に変更された)という表現も出てくるのでしょう。ここでは「無辜でないもの」、罪があるものとしての「北朝鮮」が措定されているのであり、そこに生きる無辜なるものが<自由>、<人権>、<民主主義>を享受できるように、体制を崩壊させるのは自分たちの使命であると言わんとしているかのようですらあります。ここまでくると朝鮮排除とレイシズム反対運動の切断、排除の上書きに留まらず、より積極的な排除の正当化が図られていると言っても過言ではないように思います。

3.残ったのは「悪い朝鮮人は殺せ」

 「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」という叫びを聞けば恐怖をおぼえて当然です。今回のデモの開催地である京都でも朝鮮人集住地区であるウトロで排外デモがなされたり、児童がいる朝鮮初級学校は3度にわたり襲撃にあい回復できるかわからないような傷を残しました。この状況の中で朝鮮人として生きることがより困難に感じるひとは確実に増えたでしょうし、また朝鮮人に限らなくとも日本のほかにルーツを持って生きる人々や社会において周縁化されている様々なマイノリティにおいて「次は自分に向くのではないか」という恐怖を植えつけたかもしれません。そんな暴力の標的になれば「誰かこの状況を何とかしろ!してくれ!」という気持ちにもなるし、そこにはもう藁をもつかむような悲痛さもあるでしょう。
 そして、そこにつけこまれたのです。在特会と主張こそたいして変わらないような歴史修正主義者や保守右翼までもが加わるかたちで(まさに「右も左もなく」)「仲良くしようぜ」と手をさしのべることは、朝鮮人たちをふるいにかけるような行為であったと思います。
 あれだけの暴力をくらって、そこに希望を見出さざるを得ない朝鮮人がいることなど、最初から分かりきったことなんです。また、本当はそういった本質的に在特会と変わらない保守、右翼に我慢したくないという気持ちを持ちながらも、底の知れない暗い絶望において偽と分かっていても光を見なければ生きていけないというような心境もあったかもしれません。
 そうやって手をつないだ朝鮮人たちを「当事者の声」として持ち上げ利用する一方で、その手をはじき日帝の暴力を根源から問い続けることを選んだものたちを「ヘサヨ」とレッテルを貼り、「ミンジョク主義」「糞チョソン人」と嘲笑し、罵倒することによって、仲良くすることを拒否するならば何が待ち受けているのかを見せ付けられてきました。
 仲良くしようぜと差し伸べられる手は、それを払いのければ殴るための手として本性をあらわにしました。
 こうして「当事者」朝鮮人/「糞チョソン人」という新たな差別の線を引き、さらに両者間での反目が演出されて、残ったメッセージを何と考えればよいでしょうか?植民地主義を告発し続けるような「悪い朝鮮人は殺せ」、これに尽きると思います。
 仲が良かろうと、悪かろうと私たちは様々に相手を抑圧する側になったり、また抑圧される側にもなったりします。仲が良いからこそ、訴えにくくされている声もあるし、余計に傷つきもするし、不自由な関係を呪いたくもなるものです。対等でない関係によって縛られているときに私たちがなすべきは特権的な位置から仲良くしようと手をのばすことではなく、まずはその特権的な位置にいるほうがそこから降りることです。
 差別、排外主義を許さないみなさん、私たちと歩きませんか?仲良くしようぜパレードがある7月20日に「在特会社会」、日本に抗して。

自由と人権は「国民」の占有物ではないと考えるひとびと

*当デモへの批判、意見等につきましては、主催団体のメンバーが個々に回答することはありません。批判、意見等に対し、団体からの回答、意見表明が必要だと判断した場合には、当ブログもしくは当ツイッターアカウント(@kokuminyamero )を通じてのみ行います。